2014年11月18日火曜日

仏教の因縁生起ですが、世間では因果を強調されるが故に、縁の大事さが忘れられがちですが、その要素の複雑さと人知を超えた存在としては縁ほどすごいものはありません。

縁が活きるかどうかは、アンテナをしっかり張っておくこと以上に必要なものはないように思います。
縁があれば、自然体で、そのように流れは進んでいきます。
自分の人生に極めて大きな影響を与えていると後に評価できることやものや人について、振り返れば、様々な縁がないとたどり着かなかったことがわかります。

こちらがアンテナが機能していないと、その縁は始まりません。相手側もしかり。片思いは結局、縁の不在なのです。しかし、無理をしないで自然体でいることで、その後も何らかの縁が続くとしたら、こちらが思ったり、願ったりした形とは違う形での、やはり縁があることと言えるでしょう。

繰り返しますが、縁は自力で何か出来るものや自分でストーリーを作れるものではなく、極めて不思議な偶然の巡り合わせとも言えることの積み重ね(これが縁)によって、なるべくしてなる結果で、その深まった関係に感謝できる人生で特別なこと、これを作り出してくれるものと言えるでしょう。

素晴らしいものです。

2014年11月14日金曜日

言葉の定義

今日はいつもと少し違う切り口で。

仏教はじめ、宗教者や啓蒙家の書には、愛、慈悲、思いやり、優しさというような言葉が登場しますが、各々がそれらに何らかの定義付けをして話が進みます。
多くは、その中で言いたいことが同じであるにも関らず、場合によっては、片方ではその言葉を否定し、一方では至上に掲げます。

結局は、広い概念を持つ言葉ゆえに、その中で、どう定義するかによって、意味が反対さえなるということです。

あまり、その単語に思い込みの定義付けをして語ると誤解が生じる典型ではないか、と考えます。

反対に宜しくない感情なども、渇愛と言ったり執着、煩悩と言ったり様々。これも丁寧な意味の共有化が事前に必要なのでしょう。

2014年11月9日日曜日

人生の究極の幸せ(至福の瞬間)

人生の究極の幸せ(至福の瞬間)、それは何か。
ふと、朝、確信しました。このことは、人生の中の最大級の発見かもしれません。

 幸せは自分の心の持ちようというのは、この投稿の最初にも書き、その後も繰り返し書いてきていますが、至福の瞬間と言える、このために人生があったという絶頂の精神状態はどんな状況なのか。それがわかったのです。

日々の幸せは上記の通り。

それを超える大きな揺るぎない幸せとして、 自分は芸術や映画とふれ合い、それに心から感銘を受けた瞬間がそうではないか、と思ってきていました。
でも、それはどんなに幸せでも「至福」ではなかったのです。

映画・音楽に感動し、涙する。これは自分だけの感性がその瞬間を呼び寄せていて、とても幸せなのですが、あくまでそれは 「自分→対象」 という一方通行の愛・敬愛です。

ひとことでいえば、究極はそれが 「自分⇔対象」 と双方向になる時。
それを偽りなく確信できる瞬間、なのです。

自分がその対象を熱望し、そして相手がこちらを熱望している瞬間です。
「共感」「共鳴」の時とも言えましょうか。

それは人間同士でしかあり得ません。1人では成立しないのです。

対象が芸術では、どんなにこちらが共感しても、向こうが自分に働きかけて共感してくることはありません。

認められる欲求、といってしまうと何か自己本位なニュアンスになりますが、そういうこちら側の欲求ではなく、ここでいうのは対等な同じ程度の相思相愛で、その度合いの強さが強いほど、至福度はアップするということです。

子育ての過程で何度も「このために自分は生まれてきた」という確信をしたのは、自分の無条件の愛情に加え、子供がこちらをやはり損得勘定なく手放しで熱望していることが分かる瞬間があるからです。

でも人間にも色々な距離感はあります。仲間・同僚もそう、親友もそう、子供もそう、あくまでその社会規範の関係の中での共感となり、相思相愛度は究極にはなりません。

やはり結論は男女間で相思相愛の状態に何の疑いも持つことなく、相手をともに信用し、それを瞬間的に実感できる時間を共有すること。
具体的には言うまでもありませんが、その瞬間、果して自分の人生で一度でもあったかどうか。
結婚しているとか、付き合っている相手がいる、という話をしているわけではないのです。
常に一方通行、どちらかのベクトルが強くて、同じ強さで引きつけ逢う瞬間を持ったことがあるか。
恐らく、感情が流浪する生物である人間には、こんなことは「瞬間」でしか経験できないこと(持続的なものではない)でしょう。

でも、それを実感できる瞬間を確信したことが人生で本当にあるのか。

考えてしまいました。

この千載一遇ともいえる瞬間を自覚的に感じることができる人は世界一の幸せ者と思うのです。

2014年11月7日金曜日

人の善意や好意を受け入れること

他人に甘えるな、借りを作りたくない、自力で解決せよ、という世間で生きてきた私たち。借りを作らないこと、他人の世話にならないことこそが、自由でまっとうな生き方であると信じて疑いません。

しかし、これは大きな勘違いであり、思い上がりであり、人生の流れを狭める行為です。

まず、他人からの働きかけを、貸し借り関係でしか捉えられないことは悲しい考え方と言えるでしょう。

多分、相手の立場に立って考えれば、受け入れられることが一番の幸せ、満足感に繋がることになろうかと思います。

相手のその行為が、善意・好意から行われるものと推察される場合は、可能な限り受け入れること、そしてそれを借りが出来たと考えずに、心からお礼をいうことで完結させるという割り切りが大事なのかもしれません。

2014年11月5日水曜日

究極の問題解決方法

問題解決方法は5つあると言います。
4番目とそして5番目は究極とも言える解決方法です。

�突破する
突破するために、時には争い、闘い、競い、主張し、説得し、自分の意見を通します。
�逃避する
辞めたり、逃げ出したりして、問題から遠ざかります。
�我慢する
ただ忍耐、辛抱し続けて耐えます。

�が一般的に正しいと言われますが、最近、そうではないのではないか、と考えるようになりました。  

�気にしない
問題を問題捉えず、気にしないこと。これは果たして�にならずにいけるのか。気にしない、と必死に念じて努力する限り、やはり�の領域のように思います。
�気にならない
これぞ究極の問題解決方法です。
問題が悪化するようにも思いますが、本当に気にならない状態ができるならば、問題も自ずと去っていく気がします。達人の領域、これほどの精神力はないでしょう。憧れます。

2014年11月4日火曜日

流れに身を任せる

次々と、どうしたものかと思えるような出来事が自分の身辺に起こります。
色々あがくのですが、あとで良く考えると、それを乗り越えるのには、何か自力でない力が自分に働いていることがわかります。
絶妙なタイミングで誰かが助けてくれていたり、方向を変える出来事が起こったり、複数のその後の発生する事象が流れを別の方向に導いてくれたりと、全く自分の力ではなし得ない要素が周囲に現れることがあります。
また、解決策を自分のアクションで行ったとしても、そのアクションに取りかかるのは、当初から想定していることはまずなくて、思いがけないひらめきであったり、後でもう一度やろうとしてもできないような、 火事場の馬鹿力とも言える対応 だったりすることがほとんどです。

救ってくれる環境が現れること、自分へのアクションの働きかけも、自力とは対局の力学が働いていると思えるのです。天から降りてくるとも言えるような…。

このことから言えるのは、流れに身を任せることが、最終的には解決方法なのではないか、ということ。
結果が解決されたのか何なのかということも、正確に言えば、自分ではわかりません。でも、途方に暮れた状態が延々続くことはないし、事態がどんどん悪くなりつづけるということも、経験上、ないような気がします。

自分はこうしてああして、こんな結果を得るんだ、と気合いを入れても、所詮自分を取り巻く無数の「縁」を考慮することはできません。そこから導かれる目標や目的は、人生の流れの中では、見当違いのものも沢山あるに違いありません。それであれば、やはり、身を流れに任せた結果こそが、縁が紡いだなるべくしてなる結果なのではないか。そう思うのです。

今もそんな中にいて、現状から逃げ出したいとか、問題課題が山積していると思える状態において何も自力で解決できていないような気がしますが、今こそ流れに任せて力まない、先を心配したり、考えすぎないことが一番重要なのではないか、と強く思うのです。