2014年10月28日火曜日

念じる力と習慣

「念」というもの、「祈り」とも言えますが、その力は確かにあるようです。
ただ、自分の希望を叶えるためのお願いごとは、基本的に叶った試しはないので、そういう都合の良いものではないようです。

ともかく、念じる、心を込めて何かをすることは、よほど意識的にやらないとできないことです。

自分はまだまだこれができていません。
ただ、仕事や作業をする際に、その届く先、何のため誰のためにやっているのかを思ってするのは、思いの届きかた、念が伝わるという点で、無味乾燥と作業するのとは違う気がします。

良く、植物や野菜を育てる際に、気持ちをそれらに伝えて育てることで、発育がかなり変わると言います。
人によっては、非生物であっても、念は伝わり、影響を及ぼすと言います。

その習慣をつけることは、まだまだ自分にはできていません。念力のように気合いでやるものではなく、やはり静かに想念を送りながら目の前のことに集中するのが、あるべき姿かもしれません。

念にあわせて、感謝を持ち込めるとより素晴らしいでしょう。そして、その時、自分が幸福感に満ちた気持ちでいられ、念じる自分に幸せを感じられたら最高なのは間違いありません。

2014年10月27日月曜日

他人をどうこうしようと考えない

日頃から、他人をコントロールしようということは良くない。それぞれを尊重すべき、ということを持論にしていますが、その他人が自分や自分の大事な人に攻撃や干渉をしてくる場合、他人は他人で済ませるのが困難な状況も出てくるでしょう。

でも、結局は「人を何とかせず、自分が何とかなる」という普遍的な法則以外ないのです。

子供を教育という言葉のもとに、こう育てていく、と強権発動したり、厳しさを出していくことは、その姿だけを子供は引き継ぎ、人格者は間違いなく育ちません。

正しいことを伝えるために声を荒げれば、荒げた部分だけが引き継がれるのです。

子育てにおいて、なにがあっても怒って、怒鳴って、殴ってはいけない、という絶対原則にたどり着くのが私はちょっと遅かったです。
世の中には厳しさを賛美し、どうしても抑えられない母親の味方をする子育て本が蔓延しています。実際、野放図にした親の子供はとんでもない周りの迷惑を考えない(というより、社会の共同生活ルールを把握して履行できない)子供になっています。でも、これは親の姿がそのまま子供に反映されただけで、恐らく、怒らないことに問題があるのではないのだということも、今ようやく確信しました。

我が家の子供は、これやってくれたら嬉しいな、ということを伝えると喜んでやってくれる。小学生になって、よりそれが顕著になって、実に驚いています。
しかし、まさに母親が上記を実践し、怒りを持たずに説明をしてきた子育てが今、形になったのではないかと思うのです。
色々やり方に難点もあったのは事実ですが、彼女は、一番大切な大原則の部分をしっかり子育てに反映してきたことが、子供の美しい姿になって結実したのだと思います。
現に、我が家の子供たちは母親とコミュニケーションをこれでもかというくらいとっています。
沢山遊んでくれたお父さんは、今も遊んでくれる楽しい人ですが、些細な日常を語り合える存在にはなっていません。
ある程度、一緒にいる時間の差などにより仕方ない部分もありますが、やはり自分の親業が、母親である妻より未熟であったという結論ではないかと、身にしみている今日です。

今は、この真理に気づけたことへの感謝と、これからも子供たちとの時間は続くのですから、より一層自分の言動が彼らに直接影響することを念頭におきながら、彼らと接していくことです。

そして、これは会社や世間を含めて、どこにでも当てはまる真理であることも忘れないでいたいです。

2014年10月24日金曜日

出入りのバランス

この世のすべては出入りの量のバランスが揃って、はじめて健全になる摂理のようです。
そして、実は出す方がより重要なのかもしれません。
呼吸をみても、吐く息を大事にすることで心身が充実すると言われます。
お金も貯めずに出すことを心がけると自然に入ってくると言います(勿論無駄使いや自分のためだけの使用ではないという条件付きですが)。
そして、自分に置き換えると、ある年齢以降、またある分野をみてみると、何と入れることばかりに集中して、出す作業を怠ってきたかがわかります。
映画を見ました。それをどれだけ何かに還元したか。ただ、キャパシティオーバーの吸収作業ばかりしてきたことに気づかされます。
本、それも仏教本で学びました。それをまとめていた時期は良かったですが、ある時期以降、明らかに吸収できなくなっている自分がいました。
これら、出す作業不足は、別の言葉で言えば、実践が伴っていないということです。
映画であれば、それを自分の何らかの表現に意識的に出さなければ今の自分のように消化不良を起こします。
仏教の教えは濫読したなら、その中のどの教えを生活の中の実践に落としていくかがないと、仏法に従った菩薩としての生き方のスタートにも立てていないことになります。実際、今、そこから脱出できない自分がいます。

今、ある意味人生の中で最大とも言える試練の中にいます。笑いがこみ上げてしまうほど、わかりやすすぎるくらいはっきりした試練です。
まさに、今、これまでの自分の吸収してきた素晴らしき教えを実践できるか、その場所を用意してもらった状態なのです。語弊はありますが、これは大変に貴重で有り難く、ワクワクするともいえるようなすごい状況と捉えたいです。学ぶ前の自分ならば、確実につぶれて、ヤケを起こし、他人を傷つけたでしょう。 それを、今、どう立ち回るか、問われています。でも、この内容は自分一人の中から出ることはありません。つまり、誰のためでもなく、自分一人が評価者でもあります。
この状況を客観視すると、これまで学んだ仏法そして魂の仕組みが全部つながって腑に落ちるではないですか。
人生最大の発見かもしれません。それを、身を持って知れた。
何と私は幸せ者か。
ありがとうございます。ただ感謝あるのみです。

2014年10月23日木曜日

常に感謝

感謝の気持ちを持って生きることは、あらゆる宗教でも共通して言われいることです。
怒らない、不平不満や悪口雑言を言わないという禁戒もありますが、究極は一時も感謝の気持ちを忘れることがなければ、禁戒は封印されるのかもしれません。
あらゆる自分を取り巻く「縁」が自分を生かし、幸せをもたらしてくれていることを心底実感できていれば、イライラしたり腹立たしくなることはないはず。
いかに、そういう瞬間をひっきりなしに直面してばかりの自分が、感謝のことが腑に落ちていないか、改めて考えさせられる話です。

2014年10月21日火曜日

「幸せ」を感じやすくなる日々の練習

良いことばかり起こるようになる、というのは正確にはあり得ないことです。目の前にある現象を、良い、ラッキー、幸せと受け止められることが増えた、という自分側の変化が、結果的に良いことばかりが起こるようになったかのように変化するのです。
プラス思考、というのも、この発想とはやはり異なります。

幸せを感じるアンテナの感度をどれだけ上げられるか、ということだと思います。

日々、幸せだ、と感じることを意識化する(ノートに書く、ブログにあげるなど)作業を行うことで、次第に感度はあがるものと思います。

今日は朝からダークで自分の気持ちをもち上げることにとても苦労しましたが、会議が終わってから、自分の味方をしてくれる人が何人もいることを知って有り難く、そのことがへこんだ気持ちを煖めてくれたこと。これは幸せを感じました。
寝る前に再度読み返した小林正観氏の本。今、一番書いてあることに共感できます。これはとても幸せな話です。
ろうそくの薄明かりの演出のなかで、美味しいお酒を飲みながら、「ブルースエット」(C・フラー)に浸る、これも極上の幸せ。
やっぱり、一日にたくさん幸せがあることが判明しました。

2014年10月15日水曜日

否定的な言葉は使わないこと

嫌みや皮肉は、一見ユーモアや逆説的な笑いとして受け入れられる錯覚に陥りますが、それは人を貶める言葉に違いありません。
また、他人の発言に、「でも、」「だけど、」「だって、」とつなぐことも、何気なく使ってしまいがちですが、結果的に相手の話の否定という意味を持つ言葉の展開と言えます。
そして、「嫌だ」「嫌いだ」「つまらない」「疲れた」というよく使ってしまう言葉も皆否定語です。
これらの言葉を毎日のように浴び続けると、心身は間違いなくダメージを受けます。
浴びるのもきついですが、自分から仕掛けたら、必ず自分に返ってきます。人は離れ、その人と一緒にいることは不快であるということが意識・無意識関らず刷り込まれます。
難しいですが、否定語を可能な限り排した言葉使いを心がけることで、だいぶ日々の人間関係が楽になることでしょう。

この世に存在しないもの

「幸せ」は心が生み出すだけのものであることと同様に、次のことも、心次第、
自分自身の捉え方次第ということが言えるでしょう。

「成功」「失敗」。
何が成功で失敗か。冷静に観察すると、すべてのことについて、死ぬまで結論は出ないのが実際です。その一見厳しい状況に、不平不満、愚痴、泣き言、悪口、文句を言わずに乗り切れるか。ハードルはとてつもなく高いですが、幸せになるには挑戦する価値は大いにあります。

「敵」「味方」。
人は役割を持って存在し、どの人も縁ある人は人生の上で必然的に配置されてきた人と捉えます。
つまり、目の前で起こることで、否定し、呪うべきことは何一つない、という結論です。
このことを受け入れるのも、相当な気持ちの修行を積む必要がありそうですね。

2014年10月14日火曜日

足るを知る

少欲知足とも言いますが、幸せを考える上で、このことも必ずおさえる必要がある考え方です。
幸せな状態とは、やはり「満たされた状態」であることに違いありません。
では、満たされた状態と常日頃から認識出来ないのはなぜか?
満たされていない部分に自分の気持ちが行ってしまっているからです。
でも、少し考えれば、また物理的環境的にに自分より厳しい状態にある人を見たり接したりすれば、すぐに自分の満たされている部分に自分の気持ちのスポットを当てることができます。
いかに、普段からこの作業をする癖をつけるかが鍵です。

例えば、ちょっと息を止めてみるだけで、呼吸していることに、呼吸できる環境すべてに、有り難さ、幸せを感じることができるのです。

何も少欲にこだわらなくても、「知足」することを意識したいです。
そうすれば、自然と「もっともっと」という向上心などと賛美されているものの呪縛から解放されて、少欲に近づく価値観に切り替えられるのではないでしょうか。

今、目の前こそがすべて

「人の一生とは、一刹那だけです」と釈尊はおっしゃいました。
自分も思えば、今日の会社の出来事を頭で反芻して確認したり後悔したり、明日どうするかで頭がいっぱいになったりして、目の前の子どもたちの語りかけに上の空になっていることがいまだに頻繁にあります。
これは、何とか止めなければなりません。
この言動により、最後に苦しむのは必ず自分です。
刹那を大事にすることだけが、三次元の世界における私ができるすべてです。
すぐにあの時の自分の発言、回答は誰かを傷つけていないか、失礼はなかったか、明日の振る舞うべき態度は…と、考えることで、困難を乗り切り、自分が進化してきたという幻想にしばられています。
私は目の前の私でしかない。その目の前で私を見ている人(事柄)以上に大事なことはこの世に存在しない。
このことを肝に銘じていくことを忘れないようにしたいです。
だからこそ、自分の口から出る言葉は、安らぎ、輝きに満ち、笑顔で接することが大事になるのです。

幸せとは

幸せとは何?と聞かれたら、どう答えますか?
すべての人が「幸せ」と言える物事は存在しません。なぜなら、その人が「幸せ」と思ったことが幸せであり、それ以上でも以下でもないからです。
自分が幸せと感じられる生き方が幸せなだけ。
でも幸せを感じられない理由は何でしょう。
それまで、私たちは、人と競ったり、比べることで、人より抜きん出て初めて、「偉い」「立派」「素晴らしい」と思う価値観で教育され、暮らす世間もそれが常識として誰しも疑わない環境に身を置いてきたからです。
この相対性に価値を置いた人生観は、言うまでもなく、必ず不幸を感じる宿命を伴います。
幸せになる第一歩として、他人との比較に生きる価値観からの脱却が必要です。

このブログのこれからの使い方

日々の前向きな日記としてスタートした5つ目のこのブログ、続かなかったし、機能しなくなって久しい。

昨日、久しぶりに息子と寝る際に「何か話をしてほしい」という要望にまるで応えられない自分に落ち込む。普段、読んで納得している本の内容を語ることさえできず、何のための読書か。

結局、右から左に流れているだけ。表現する、外に還元することを怠ってきた結果だ。

どんな方法が良いかは、手探りだが、まずは息子や娘に語れるように、1日1話の形式でまとめて、それを貯めていくことを繰り返して、語れる場面に遭遇したときに語れるようにしたい。

学校の教師をしたら恐らくそういう手法で準備をしただろうから。
自分には即興能力も話術力もないのだから、準備をするほかない。

以降、このブログをそのように使う。