2015年4月27日月曜日

縁(運命の出会い)について

人生で出会う人すべてが縁があって、どんな人も人生で会った人は誰もかれも有り難い話、という運命論はどうしても受け入れ難いものがありました。
仏教者でもそう述べる人もいますが、こればかりは、どうしても頷けない教えの一つでした。

実際、自分の記憶力の悪さも手伝って、出会った多くの人について少し経つと何も覚えていないからです。
刻一刻の積み重ねが人生だから、影響を受けていないわけはないし、自覚の有無は関係ないと言われるのもわかるりますが、やはり出会う人すべてが並列の「運命の人」のような言い方には共感できずに今に至っていました。

例えば仕事場でそれなりに一緒にいた期間が長くても印象に残らず、ほとんど影響も与えあっていないだろう人がいる一方で、かなり刹那的な接点しかないのにいつまでも記憶に残り、そこで交わされた経験や言葉に自分が折々考えるきっかけを与えてくれた、そんな存在の人もいるわけです。そうすると、後者の人とは縁があった、という説明にはしっくり来ます。
勿論、記憶の残るかどうかは主観的なものだから、相手は自分の存在などかけらも覚えていないかもしれないし、自分としては記憶さえないすれ違いの方に、自分の存在が強烈な印象を与えていて、向こうにしてみれば、私は大いにその人生において影響力のある人間だったということもざらにあります。
(最近、自分の過去の言動がその方に大きな影響を与えたと感謝などされて、驚きと共にホッとした嬉しさを味わう場面がしばしばあるのです。裏を返せば、悪く受け止められて、以来恨みを持たれていることも少なからずあるのでしょう。知らぬは、自分ばかりという状態で…)。

そう考えれば、「運命の人」であるかは、こちらの自覚の有無がすべてではないことは納得です。

その悩みに、ちょっと嬉しい助言となったのが、山川紘矢氏「出会った人が運命の人」の一節です。

『あなたの「運命の人」は、あなたが選択する人だということなのです。間違いはありません。人は「運命の人」としか、深い関係を築くことはないからです。「運命の人」とでなかったら、深い「縁」は成立しません。』

『自分の直感を大切にして「いい人」だと感じたら、積極的にアプローチし、そのプロセスを楽しむようにしましょう。人生はプロセスが大切だということ、そして人生には失敗がないということです。どんな体験でも、魂が必要とする体験をするようになっているだけだからです。』

こう考えていこうと思います。

2015年4月22日水曜日

怒りを持たないようにするために

久しぶりに小林正観さんの本を読んで。

「正義感、使命感は、相手を憎しみ、恨み、怒り、軽蔑するような人間の心の動きにつながっていく」
これは至極名言です。
正義感とか使命感というものは、自分を律する時以外に振り回してはいけない典型と言えます。

「許す」つまり寛容性についても、このことを自分にも他人にも許す姿勢を持つことが、安穏を呼びます。許さない心こそが怒りを保持し続けて、不幸を呼び込むことになります。

怒りは毒素を持ち、怒る本人の身体をも蝕みます。つまり、怒って一番損をするのは自分だということ。愚痴や不平不満も同列で、身体に良くないようです。

まずは、自分は正しいという考えを捨て、人間という存在は大きな視点で見ればちっぽけで大したことはないと知ること。これが怒りを呼び込まない重要な点です。

そして、試練の話で前述したとおり、人間の心のレベルが上がる時に、一般的に不幸と言われる出来事が続く(つまり試練が続く)ようです。不平不満、泣き言を言いたくなる場面で「来た!」と思って、冷静に観察します。
そこでもなお、喜び、幸せ、感謝を持てるかが、試されるわけです。
私の40代はその試練の時であることは間違いありません。

今の私には恨みつらみはありません。
しかし、明らかに人生を楽しむ余裕の構えに欠けています。目の前の対処に翻弄されている状況です。
自分の無能さにつくづくうんざりしているわけですが、この自分を「無能」と見る裏側には、「自分はもっと優秀であるべき」「他と比較して、相対的に自分は劣っている」という思い上がりと、喜び、幸せ、感謝とは反対の、怒り、イライラ、不平不満に近い、他人の評価を気にする、人間としては未熟な姿が明らかになってしまいます。

自己卑下は、思い上がりの裏返しと心得て、その発想から脱することが今の自分に与えられたミッションかもしれません。

2015年4月21日火曜日

世界一孤独な国/晩婚化や非婚化は肯定できません

話題になったのは随分前ですが、OECDが社会的孤立度を調査した結果、主要20カ国で日本が飛び抜けて一位だったという事実。

正しくない自己愛を強めた結果といえます。

日本人はとことん家族を大事になんてしてこなかった。
ただ、自分だけが生きることに一生懸命になってきた結果なのです。

晩婚化や非婚化、離婚を、あたかも個人の自由のようにいう世間の風潮自体が、この孤立した人間の集団である国家を象徴しています。

人類が今に続いていることを考えれば(言い換えて、今の自分の生に過去からの脈々と流れる事実に感謝する心を持っていれば)、結婚して子どもを育てることは自然極まりないことは言うまでもないことで、どんな後進国と言われる国であっても世界中の人間の常識です。

この話をすると必ずと言って良いほど、結婚できない、子どもができない人の差別であるというような問題のすり替えが行われる、病んだ国民性が現代日本です。

晩婚、非婚を当然のような顔をして済まされたら、まさに「人間の生き方の質、人間性の質が問われる」(佐々木正美さんの言葉)わけです。

孤立した人間に幸福はありません。

家族もしくはこれに準ずる存在がなくて、孤独ではないなんて、強がりの戯言でしかありません。

なぜなら、それは本気で自分以外の人間に自分以上の幸せを願って生きるという要素に欠ける人生だからです。

2015年4月17日金曜日

臨死体験と死を前にした人の気持ちから見える人生のあるべき姿

これまで読んだ臨死体験の本と、死を前にした人の気持ちを取材した「死を前に後悔した25」という本を読み、それぞれに人間の嘘偽りない魂の姿を感じました。本来の人生のあり方の答えです。

死を前に、感情に振り回された一生、他人に優しくしなかったこと、自分が一番と信じたことを猛省するということは、とてもよくわかります。臨死体験を超えた方々の結論と通ずるものがあります。

逆に、健康に気をつけるべきだったとか、自分のやりたいことができなかった(やらなかった)、仕事ばかりだった、遺産を決めなかった、自分の生きた証を残さなかった、というのは、あまり究極の結論とは言い難い。ずいぶん手前で今も目先の欲望や習慣から全然脱していないからこういう結論になるのではないかとも感じます。
それはそうで、死の前まで俗世間から一歩も踏み出せない人も山ほどいることでしょう。誰もが哲学的宗教的境地に達することができるわけがありません。

となると、先の投稿に書いたように、死の前に心の安寧をどれだけ持てたか、つまり、後悔よりも人生に満足と感謝を得てその時を迎えられるか、ということなのではないでしょうか。

とにかく、いつでも命は尽きる可能性があることを忘れず、人生で何が一番大切なのかを常に自分の言動の根底において、現状をきちんと受け止め、試練からは逃げず、自分を取り巻く無数のものへの有り難さとどんなささやかな幸せも見落とさずに味わって1日1日を終えることが大事なのではないか、と確信した次第です。

発達課題〜人生の各年代には乗り越えなくてはならない課題がこなせない課題がある

危機的主題、日本では発達課題というそうですが、「人生の各年代には乗り越えなくてはならない課題があり、それを解決しないと危機的な状況が訪れる」、ということだそうです。

なるほど、と思いました。

思えば、40代になってからは、20代後半の凄い充実感や、30代の子どもたちととともに、また、仏法に出会って、人生を100%肯定してきた時代のかげかたちが消え、東日本大震災の修羅場から仕事に適応できない二年、そして、44歳の最大最多の危機の連続(現在進行形)は、まさに解決していかなければ、というより立ち向かわなければいけない課題と向き合う時期なのだと。

それが出来たかどうかは、死の手前の老齢期に人生に満足や感謝ができるかどうかということです。

死に方やその時期はコントロールできるものではありませんし、死に際の心持ちこそが人生の良し悪しを決めるというのもいささか極論が入っていますし、老後を見据えて今を生きるというのは正しくないと考える自分がいますが、少なくとも、老いて胸に平和と安寧を抱けるか、不安や怒りしか持てないかは、それまでの生き方の総決算が見えるバロメーターにはなる気がします。

何が人生で一番大事かを自問自答しないと解決できないような課題を突きつけられた場面で、どれだけ真剣に向き合って考え、自分なりに行動したか。
これが、重要であることを再確認させられた言葉でした。

2015年4月13日月曜日

「気づかせる」ための試練

ここまで公私ともに追い込まれるような試練が続くと、本気で打開策を考えないと乗り越えられなくなります。

次々と起こる難題と、自分の対応の結果が裏目に出て、自信はなくなる一方。首を傾げるばかりで、今日まで悶々と頭の中を不毛なことがぐるぐると渦巻いていました。

それが今朝、通勤の途中で、改めてこれは

「仏法への参究」

が自分に求められていることを意味するのだ、ということが腑に落ちました。
それに尽きると思いました。

次々と降りかかる試練は、このことに気づくためのものであったのだと。試練がないと、残念ながら、自分には気づくだけの力がなかったわけです。

両親、妻、同僚、そして子どもたちが、自分に投げかけ続けてきた言動は、それを伝えることが自分への意味あいだったのです(勿論、当の本人たちに意図があるわけではなく)。
私は、そのことに気づいて、一から言動を仏法に照らし合わせて見直す必要がありました。

そして、一言で今の自分に必要なことを表現すれば、

「(対自分を含めた)寛容と優しさ(慈悲心)」

ではないかと。
大きな気づきです。

2015年4月10日金曜日

「怒らない」生き方

まず怒りについての真理、ぶれない定義を踏まえた上で、日常にどう落とし込むかが大切です。

・怒りの人生に喜びはない。文句だらけの不幸な人生になる。
・私は怒った、ということは、私はバカです、と同義。怒るのは無知で、適切な判断もできない愚者であることを知る。
・正しい怒りは存在しない。どんな怒りも正当化できない。
・怒りは、自分の心に生まれる感情(生み出しているのは自分以外ない)。
・世の中の破壊の原因は怒り。
・怒りは「私は正しい、相手は間違っている」という考え方に生じる。
・良かれと思ってやったことに結果が伴わなくても当然と受け止める。自分に都合の良い結果を求めるのは無知。世界はあなたの都合など知ったことではない。
・被害妄想概念が怒りを生み出す。
・その妄想概念の原因は「エゴ(我)」(私は○○である)。
・この世のすべての問題は、この(私は○○である)から生じていると言っても過言ではない。
・怒る人は回りに限りなく迷惑をかけている。強烈な恐ろしい放射能のような波動を発する。
・怒る人間は「面子」を持ち出す。それは醜く、空っぽな人間。
・自分が怒ったと思った瞬間、その自分の心を観察すると怒りは消える。それは鎮痛剤で瞬時に痛みが消えるように、快適なはず。


A.スマナサーラ「怒らないこと」参考

2015年4月6日月曜日

承認欲求からの解放

いい評価が欲しい。
これが、人間の最大の欲求であり、最大の煩悩ではないかと思う。

不安から他人の評価を知って自分の身の振り方を反省するなんて言いながらも、結局は他人から良く見られたいという欲求に尽きるのではないか、と思います。

人間の最後まで執着するのは、承認欲求です。

では、これから解放されてみてはどうか。
一切、考えない。
これをすべき、と心に決めたことは、他人からの評価抜きに実行する。

これから、40代後半、自分の目標をここに絞ってみたらどうだろう。

他人からの噂も気にしない。表裏として、他人を一切、噂にしたり、評価しない、という行動があって、初めて成立する目標です。

ここまで、ボロボロの行き詰まった40代。
やってみる価値はありそうです。

2015年4月2日木曜日

「我」について

仏法でいう「我」とは好き嫌いのこと、と表現された高僧がおられました。

他人に批判的、自分は他人と一緒にされたくないという思い上がりの心。
自分が正しく生きることを目指すと、周囲の反面教師が目に付くようになるのは自然の流れですが、それが結果、他人の好き嫌い、他人批判という見方、つまり我を強くしてしまい、余計に仏法に沿った生き方から離れていくという難しさ。

この一年、自分はまさにこの落とし穴にはまっていくつもの信頼を失ってきたように思います。

あるべき姿をしっかり胸にもちながら、それを振り回さないということでしょうか。
しかし、そんなことを意識すればするほど、何も本音で話すことができなくなって、口数もどんどん減っていきます。笑顔もなくなっていくという悪循環。

そんなことより、身近な幸せに目を向けようという志もあるのですが、この情報過多で目まぐるしくストレスフルな日常にすぐに押しつぶされてしまいます。
自分の度量をオーバーした環境にいる限り、このスパイラルから脱することは困難なのではないか、と白旗をあげる一歩手前。

ある僧曰わく、自分を100%と規定するから人を恨んだり自分を卑下するわけで、25%程度の存在と思うことが大事、と言います。他人からの視線に一喜一憂している自分を思うと、本当にその通りと痛切に思うのですが…。

がんじがらめの日常を一度捨てて、自然に戻って沈思黙考する時間と空間をまとめて作らないといけないかもしれないと
、そろそろ本気で思い始めています。

2015年4月1日水曜日

あいさつ

あいさつができるできないということが何かと言われます。 

今朝も近所で朝あいさつをして反応がなありませんでした。
すると、次、その人にあいさつすることをためらってしまいます。

でも、それは違うのでしょう。こちらの声が小さかった。向こうは何か(考え事を含めて)夢中になっていて、自分に向けられたあいさつと思わなかった(実際、目は合っていません)。 
という具合です。

相手の反応あってのあいさつである限り、目下からあいさつがあって当然、というようになり、結局あいさつは消滅していきます。

我が社は、あいさつができる(する)人ほど出世ができず、難しい仕事をこなせない印象があります。主力メンバーは、世間の常識と逆で、揃ってあいさつできません。しかし、だからこそ我が社の居心地が悪いのは理由がわかります。

ちょうど一年前、管理職となって、自らあいさつして雰囲気を作っていくことを心がけるも、数ヶ月で挫折して、また次の4月1日を迎えてしまいました。

もう一度、戻らなければいけません。
まず、ここにおいて仕事のできる奴に本当になれるのか? なりたいのか?
否。外で、より広い世界で、まともでありたい。もっといえば、世間の常識が何であれ、人として全うに生きるべく振る舞いたい。その決断は一度、仏法と出会った時に感謝とともに実感したはず。

ここ数年、自分の思考、行動ともに、仏法からあまりに離れてしまっていました。

2015年度の初日、改めて日々の生活を仏法と照らし合わせて、正しく生きる、振る舞うことを心がける決意をします。