2015年10月19日月曜日

承認欲求からの解放

いい評価が欲しい。

これが、人間の最大の欲求であり、最大の煩悩ではないかと思う。

不安から他人の評価を知って自分の身の振り方を反省するなんて言いながらも、結局は他人から良く見られたい。

人間の最後まで執着するのは、この承認欲求なのではないでしょうか。

そのことと密接に関係する自己顕示欲は外から見て見苦しいものです。
自分を認めて欲しいと表現して顕示すればするほど人物としての評価は落としていくことになるのだと思います。その人の実践や事実が例えどんなに優れていても。

自分もどれだけこのことで醜態を演じてきたか、赤面せざるを得ません。
真正面からその行動を批判されることがないが故に、気づかないで自己PRなどと正当化してこれを前に出してしまってきたこと数知れず。

「評価」を自身で表現した時点でアウトなのだと思います。それは他人がすることであり、自分の耳に届かない賛否もたくさんあるのでしょうが、評価とはそういうものとして諦めることです。

ですから、ある程度人生過ごしてきたなら、この承認欲から解放される生き方に行き着かないと、醜態を晒し続けることになります。

これをすべき、と心に決めたことは、他人からの評価抜きに実行する(なお、他人の忠告に耳を傾けないということとは別です。忠告とは本人に届くように行われるものですから)。

これから、40代後半、自分の目標をここに絞ってみたらどうだろう。

表裏として、他人を噂したり評価しない、という自身の行動があって、きちんと成立する目標です。

東日本大震災から異動、カムバック、迷い、家族との関係の複雑化。
ここまで、難問奇問に見舞われて、行き詰まった40代。
やってみる価値はありそうです。

このことは肝に銘じて、今後の人生をやっていきたいと思います。

2015年10月14日水曜日

「こだわり」に良いことはない

意見を言わない、常に周りに合わせて判断は多数に委ねる。日本人の大人と言われる年齢の人の多くがこういう姿勢で日々を過ごしており、そのことを「大人の対応」という人も少なくありません。

これは一見、協調性があるように見えますが、自身が否定されることを恐れての自己保身的態度であることが多いのではないかと思います。

しかし、よほど性格が歪んでいない限り、意見を言った人の人格否定に及ぶ反論をしてくる人はいないのが実際。

もし、異なる意見で返されたとしても、それは別のアイデアを提示されたに過ぎません。
それを、一度反対意見をもらっただけで、彼奴は敵で自分を嫌っているとか、言わなければ良かったと後悔するというのは、余りにも短絡的です。
そして、その背景にあるのが、自我であり自身へのこだわりだと思うのです。

こだわりを持つことは美しいことでも格好いいことでも何でもありません。
「こだわりのスープ」とか、肯定的なこの言葉の使い方も好きではありません。こだわった時点で進化を拒絶していることを宣言しているようなものですから。

考え方・方法に柔軟であり、そして自身の意見・考えは常に自身で生み出して持っておくこと。

これがしっかり足を地につけた「大人」として、大事な生きる姿勢だと思います。