2015年12月29日火曜日

【Facebookの住人?となった一年、有り難うございました】


仕事柄、全国津々浦々の方々と出会い、つながれることは嬉しいですが、次に実際お会いできるのはいつのことかわからない方もたくさん。再会した時には、こちらに記憶がなくて失礼千万な奴に…、ということを繰り返していました。
もとは災害対応という業務上やむにやまれず始めたFacebookですが、日常においてその方のお人柄に関する情報に触れられることで、その人となりが以前より多面的に捉えられるようになり、再会する際の印象が格段に違うようになりました。
仕事でつながった方が多いだけに、仕事以外の面や心境などを書かれた投稿を拝見すると、その人の魅力というか人の厚みのようなものが加わって、自分の中で(いささか思いこみがあるとしても)その方への好感度が上がっていくのを感じます。
私もFacebook登録から4年近く沈黙して読む専門でいたわけですが、今年の夏頃、思い立って(開き直って?)発信することに踏み切ってから、人との関係性がここまで変わるとは思ってもいませんでした。
あちこちで再会する度に、Facebookでの発信に絡んだ話題を投げかけていただくことが増えました。
お褒めいただいたり共感したと言って頂けることは純粋に嬉しいです。
「いいね」をたくさん頂いたりシェア頂けると、また次書いても良いかな、と思えます。
きっとごちゃごちゃ書いている中に、色々感想をお持ちでも、部
分的にでも共感して下さって、「いいね」を押して頂いている思いやりを私は享受しているのでしょう。
「そうは思わないね」ボタンがもしあったら、凹んで発信出来なくなっているでしょうね(笑)。
冷静にみれば、もはや【長文失礼します】と前置きできないほど長文専門の変わり者だし、内容も一般的でないし、調子に乗って昔の写真を晒したりしていることが後で急にすごく恥ずかしくなったりしています。
こんなに頻繁に発信しておいてバカみたいですが、やっぱり多くの方の前に自分を晒す行為ですから、これでも結構勇気を出して書いています(笑)。
読んで書いて共感して、という作業を通じて、今までこれほど伝えること・伝わることについて真剣に考えたことがなかったことに気づきました。
また、自分を客観視する癖がつきました。
人間関係は常に模索中ですが、一つ新しい関係性が生活に誕生したのは確かです。
いつも読んでくださっている皆さんに心からお礼を言いたいです。ありがとうございます。
『共感』をキーワードに、来年もどうかよろしくお願いいたします。

2015年12月2日水曜日

いちいち「学び」など言うな

普段「学び」という語が乱発されていることがどうも引っかかるので、何故かなあと。
学びって、何でしょうか。
セミナーに行きました、研修会に出席しました。
勉強させて頂いています。学びました。勉強になりました。
被災地支援に行きました、たくさんの学びを得ました…。
学びってそういうところに特別に用意されているものなのでしょうか。
研修会という場では確かに新たに情報を得ることはありますが、私は子育てや夫婦関係、人との対話や確執、地域(生活の場)での振る舞いや立ち位置、旅先の新しい出会い、はたまた日常の読書や芸術鑑賞などから、結果的に深く学ぶことの方が多い気がします。
いちいち学ぶとか学んだということを言わないとだめなのでしょうか。
ここからここは学び、ここからはオフ、という考え方自体、正直よくわかりません。
人生、自覚して主体性を持って漫然と過ごさなければ、一瞬たりとも学べない時間はないように思います。
いつも吸収して進化したいので、だから、今日は勉強させて頂きますとか学びました、とかあまり言いたくない。
多分、業務中に学ぶという言葉を耳にする度に引っかかるのは、「学び」は自分の糧になったという、ある意味自分中心の発想ですが、仕事や支援はあなたの学習が目的ではなく、どれだけ他人や社会に力を還元しているかですので、それが求められる場面で、感想は「学びました」「勉強になりました」は、ちょっと無神経とさえ思うのです。