2015年12月29日火曜日

【Facebookの住人?となった一年、有り難うございました】


仕事柄、全国津々浦々の方々と出会い、つながれることは嬉しいですが、次に実際お会いできるのはいつのことかわからない方もたくさん。再会した時には、こちらに記憶がなくて失礼千万な奴に…、ということを繰り返していました。
もとは災害対応という業務上やむにやまれず始めたFacebookですが、日常においてその方のお人柄に関する情報に触れられることで、その人となりが以前より多面的に捉えられるようになり、再会する際の印象が格段に違うようになりました。
仕事でつながった方が多いだけに、仕事以外の面や心境などを書かれた投稿を拝見すると、その人の魅力というか人の厚みのようなものが加わって、自分の中で(いささか思いこみがあるとしても)その方への好感度が上がっていくのを感じます。
私もFacebook登録から4年近く沈黙して読む専門でいたわけですが、今年の夏頃、思い立って(開き直って?)発信することに踏み切ってから、人との関係性がここまで変わるとは思ってもいませんでした。
あちこちで再会する度に、Facebookでの発信に絡んだ話題を投げかけていただくことが増えました。
お褒めいただいたり共感したと言って頂けることは純粋に嬉しいです。
「いいね」をたくさん頂いたりシェア頂けると、また次書いても良いかな、と思えます。
きっとごちゃごちゃ書いている中に、色々感想をお持ちでも、部
分的にでも共感して下さって、「いいね」を押して頂いている思いやりを私は享受しているのでしょう。
「そうは思わないね」ボタンがもしあったら、凹んで発信出来なくなっているでしょうね(笑)。
冷静にみれば、もはや【長文失礼します】と前置きできないほど長文専門の変わり者だし、内容も一般的でないし、調子に乗って昔の写真を晒したりしていることが後で急にすごく恥ずかしくなったりしています。
こんなに頻繁に発信しておいてバカみたいですが、やっぱり多くの方の前に自分を晒す行為ですから、これでも結構勇気を出して書いています(笑)。
読んで書いて共感して、という作業を通じて、今までこれほど伝えること・伝わることについて真剣に考えたことがなかったことに気づきました。
また、自分を客観視する癖がつきました。
人間関係は常に模索中ですが、一つ新しい関係性が生活に誕生したのは確かです。
いつも読んでくださっている皆さんに心からお礼を言いたいです。ありがとうございます。
『共感』をキーワードに、来年もどうかよろしくお願いいたします。

2015年12月2日水曜日

いちいち「学び」など言うな

普段「学び」という語が乱発されていることがどうも引っかかるので、何故かなあと。
学びって、何でしょうか。
セミナーに行きました、研修会に出席しました。
勉強させて頂いています。学びました。勉強になりました。
被災地支援に行きました、たくさんの学びを得ました…。
学びってそういうところに特別に用意されているものなのでしょうか。
研修会という場では確かに新たに情報を得ることはありますが、私は子育てや夫婦関係、人との対話や確執、地域(生活の場)での振る舞いや立ち位置、旅先の新しい出会い、はたまた日常の読書や芸術鑑賞などから、結果的に深く学ぶことの方が多い気がします。
いちいち学ぶとか学んだということを言わないとだめなのでしょうか。
ここからここは学び、ここからはオフ、という考え方自体、正直よくわかりません。
人生、自覚して主体性を持って漫然と過ごさなければ、一瞬たりとも学べない時間はないように思います。
いつも吸収して進化したいので、だから、今日は勉強させて頂きますとか学びました、とかあまり言いたくない。
多分、業務中に学ぶという言葉を耳にする度に引っかかるのは、「学び」は自分の糧になったという、ある意味自分中心の発想ですが、仕事や支援はあなたの学習が目的ではなく、どれだけ他人や社会に力を還元しているかですので、それが求められる場面で、感想は「学びました」「勉強になりました」は、ちょっと無神経とさえ思うのです。

2015年11月19日木曜日

ありがとうの対義語当たり前(再投稿)

「ありがとう」は「有り難う」、つまり滅多にあることではない「有り難い」という意味から派生しています。
では、その対義語はなんでしょう。
『当たり前』
という解釈があり、なるほど!と思いました。
当たり前という言葉は、その響き、使う文脈によっても良い印象が持てない語です。使う側の上から目線や決めつけが後ろに見え隠れするからです。
福祉の業界では「当たり前の生活」というような言葉を使う側が肯定的に用いますが、私は違和感を感じてきました。人権や社会運動などの分野でもよく耳にします(これが口癖にさえなっている人もいますよね)。
「当たり前」という語に含むところは、この世の現象や人の行動を、決めつけている(こうなる、こうする)部分が少なからずあろうかと。
でも、人類誕生して以来、この世はすべて不確かであり無常という揺るがない真理があります。
このことが腑に落ちていたら、自分にとって素晴らしいとまで言わなくとも、期待した通りのプロセスや結果が現出したら、感謝や感激こそすれど、当たり前などと思えないはず。
目の前の結果が「当たり前」のものは何一つないのではないでしょうか。
当たり前はなく、すべては「有り難い」。
そう捉えていきたいです。

2015年11月11日水曜日

個人プレイって何?

根本的なこと。
発災により、ある日突然日常が破壊され、混沌に放り込まれた被災者(地)からの悲鳴(ジッとしていては聞こえない悲鳴も沢山ある)に応えるには、業務をこなすという次元では立ち向かえないこと。
このこと抜きにより良い支援の体制づくりを語っても空虚にしか聞こえない。
ひとは、個人プレイには限界があるから仕組みにしないとダメという。
自発性と共感性に頼りつつ、多様なバックボーンを持つ関係者と信頼関係のもと、チームワークでそれぞれが「主体的に」役割を果たすという、現状行き着いた支援の進化系を目にしている。
それを個人プレイというならば、それ以上に機能する“仕組み”とは一体どんなものを指すのだろうか。
支援の「担当」者(被災者のように追いつめられた立場でない)が、災害時の情報量とスピードの荒海に身を投げ出すことなしに、今以上の機能的支援を実現する美しい仕組みが本当に存在しうるのか。 
結局、繰り返し支援に関わり、実質的な被災地への助けとなっている方々を見わたせば、前述した根本に共鳴している者同士であって、業務感覚でこなしている人たちや仕組みの中でしか動かない人ではないんだと思う。
それが災害時の支援の特異性であり、被災地から被災地へのバトンと言われるもの。
専門家の力は被災地ではもちろん必要だし、上からかぶせる仕組みや安定的供給が約束される財源の裏付けも重要なのはよくわかる。
でも、次々と降りかかってくる課題に立ち向かって臨機応変に判断をしていく、ある意味民間支援の何でも屋であるボランティアセクターの支援においては、資格やマニュアルのようなアプローチが最も馴染まない。

2015年11月7日土曜日

不寛容な社会を作る一般的「真面目な日本人」

本能的にも精神的にも人は幸福たることを目指して生きています。
では、幸福とは?
幸福度を示す調査には主観系と客観系があります。
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◆客観系(2015年国連調査) 
日本は46位
2015年の国連調査の幸福度指数。経済学者らが国民1人あたりの実質GDP(国内総生産)、健康寿命、社会的支援、人生選択の自由度、汚職レベルの低さ、寛容度を変数として幸福度を割り出したもので、調査対象となった158か国中、1位はスイス、2位はアイスランド、3位はデンマークと相変わらずヨーロッパがトップを占めており、日本は46位で昨年の43位から順位を下げた。
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◆主観系
▽レスター大学調査(178国):日本88-91位
▽ワールド・バリュー・サーベイ(97国):日本43位
▽ワールド・データベース・オブ・ハピネス(146国):日本49-50位
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戦争に巻き込まれることもなく、これだけ物が溢れる社会に生きて、その境遇に感謝こそすれ、幸福度が高くておかしくないはずなのに、なぜ、この国に生きる人が幸福を感じていないのでしょう。
しかし、根本的に「幸福」とは、なるものでもつかむものでもなく、感じるものだということがあります。
調査結果などを並べましたが、結局はその人の主観がすべてだと思います。
経済指標など、正直幸福感とは全く関係ないと言っても過言ではありません。自分が20代に世界30カ国を旅して確実にわかったのは、そのことです。
この真理は生きる上で極めて重要と思います。
主観的幸福度は、「個人に対する社会の寛容度」が大きく影響しているという説もあり、それにはとても共感します。
不寛容な現代日本社会がこの低い主観的幸福度に現れているわけですから。
ただ「不寛容な現代日本社会」と、社会に責任を押しつけて終わってはいけません。
なぜなら社会とは人で構成され、不寛容な社会を作っているのは個々の日本人だからです。
自分は真面目に仕事をしている、コンプライアンスを遵守し正しいことをしている、業者には完璧を求める、規則に外れるものには厳罰を…。
そうやって社会が求める風潮に素直に対応してきている人たちが、社会を更に不寛容にしている最大の功労者ではないかと思うのです。
社会を牽引する位置で、仕組みや法やトレンドに疑問を持たずに仕事に走り続ける人がいればいるほど、不寛容さ・閉塞感に拍車がかかるだけ。
いつも以上にクドクド書いてきましたが、自分が言いたいのはこの最後の点に尽きます。

2015年11月4日水曜日

支援者のスタンス

昨日、久々に子供たちを連れての両親訪問をした。

妻と両親の断絶から子供たちを連れて行くにも非常なぎくしゃくが続いており、腹を割って説得、訪問の意味を伝えて、和やかな訪問ができたわけだが、今朝、断絶の根本が閃くように突然みえた。

支援者のスタンスだ。

災害時の支援スタンスとそれは全く一緒で、支援者側の思いが受ける側が受け止め切れなかったところに、決定的な結末を迎えることになったのだと。
まさかの家族関係の落とし穴がここにあったとは。 

朝、1ヶ月半に渡って伸ばしてきた髭を剃った。

2015年10月19日月曜日

承認欲求からの解放

いい評価が欲しい。

これが、人間の最大の欲求であり、最大の煩悩ではないかと思う。

不安から他人の評価を知って自分の身の振り方を反省するなんて言いながらも、結局は他人から良く見られたい。

人間の最後まで執着するのは、この承認欲求なのではないでしょうか。

そのことと密接に関係する自己顕示欲は外から見て見苦しいものです。
自分を認めて欲しいと表現して顕示すればするほど人物としての評価は落としていくことになるのだと思います。その人の実践や事実が例えどんなに優れていても。

自分もどれだけこのことで醜態を演じてきたか、赤面せざるを得ません。
真正面からその行動を批判されることがないが故に、気づかないで自己PRなどと正当化してこれを前に出してしまってきたこと数知れず。

「評価」を自身で表現した時点でアウトなのだと思います。それは他人がすることであり、自分の耳に届かない賛否もたくさんあるのでしょうが、評価とはそういうものとして諦めることです。

ですから、ある程度人生過ごしてきたなら、この承認欲から解放される生き方に行き着かないと、醜態を晒し続けることになります。

これをすべき、と心に決めたことは、他人からの評価抜きに実行する(なお、他人の忠告に耳を傾けないということとは別です。忠告とは本人に届くように行われるものですから)。

これから、40代後半、自分の目標をここに絞ってみたらどうだろう。

表裏として、他人を噂したり評価しない、という自身の行動があって、きちんと成立する目標です。

東日本大震災から異動、カムバック、迷い、家族との関係の複雑化。
ここまで、難問奇問に見舞われて、行き詰まった40代。
やってみる価値はありそうです。

このことは肝に銘じて、今後の人生をやっていきたいと思います。

2015年10月14日水曜日

「こだわり」に良いことはない

意見を言わない、常に周りに合わせて判断は多数に委ねる。日本人の大人と言われる年齢の人の多くがこういう姿勢で日々を過ごしており、そのことを「大人の対応」という人も少なくありません。

これは一見、協調性があるように見えますが、自身が否定されることを恐れての自己保身的態度であることが多いのではないかと思います。

しかし、よほど性格が歪んでいない限り、意見を言った人の人格否定に及ぶ反論をしてくる人はいないのが実際。

もし、異なる意見で返されたとしても、それは別のアイデアを提示されたに過ぎません。
それを、一度反対意見をもらっただけで、彼奴は敵で自分を嫌っているとか、言わなければ良かったと後悔するというのは、余りにも短絡的です。
そして、その背景にあるのが、自我であり自身へのこだわりだと思うのです。

こだわりを持つことは美しいことでも格好いいことでも何でもありません。
「こだわりのスープ」とか、肯定的なこの言葉の使い方も好きではありません。こだわった時点で進化を拒絶していることを宣言しているようなものですから。

考え方・方法に柔軟であり、そして自身の意見・考えは常に自身で生み出して持っておくこと。

これがしっかり足を地につけた「大人」として、大事な生きる姿勢だと思います。

2015年8月15日土曜日

「ありがとう」の反対語

なるほど、という記事を見かける。

「あなたは”ありがとう”の反対を知ってますか!?」というもの。

感謝の気持ちを表現する「ありがとう」だが、それは「有り難し」であり、滅多にないことに出会えたということ。

「反対語は『あたりまえ』」。

これを見て、我が意を得たり! と心底思った。

普段から、一番嫌いな言葉は? と聞かれたら「当たり前」と答えていたから。


http://iinee-news.com/post-937/

2015年8月7日金曜日

不寛容社会を憂う

一番の憂いは何かと問われたら、「年々不寛容な社会になっていること」と答えます。

「お互い様」にはそれを変える力があると感じる時があります。

「お互い様」は、施す側・施される側、サービスを提供する側・受ける側、という考え方の対極に位置するもの。

誰もが、何らかの担い手としてこの社会に存在しているということを、本人自身が実感できる社会にならないと、最終的に行き詰まる人が多発することになる(実際なっている)と思います。

ルールだ、コンプライアンスだ、ガバナンスだ、という議論が何よりも大事であるかのような風潮に疑問を持たない方が多いと感じますが、一方でそれが社会の不寛容化に拍車をかけていないでしょうか。

2015年7月31日金曜日

一対一の会話で心がけること

話し上手・聞き上手になるための秘訣を整理してみました。


〔反射〕
・相手の言葉の部分を繰り返す「反射」を用いる
・内容以上に「感情」の反射を行う

〔表情〕
・話しを切り出せない時は、ひたすらニコニコする
・発話後、イの口を意識する(笑顔を保つコツ)
・意識して目を大きく見開く
・相手の目を見て黙って聴く

〔褒める〕
・質問する形で目の前の相手を褒める
・反応がなくても繰り返し褒める

〔発話量〕
・発話量を3対7にするつもりで抑える

〔発言内容〕
・道徳的判断、倫理的批判をしない(上から目線にならない)

〔自己暗示〕
・この相手が自分は好きだ、と暗示をかける
・発話するからには、自分の話に相手は耳を傾けてくれる、と思い込む(話に自信が伝わる)


※参考:(内藤誼人「後出し会話術」)

2015年7月30日木曜日

「見方道」の境地

小林正観さんの遺作、死の直前、東日本大震災の年の夏の著作「豊かな心で豊かな暮らし」は、より端的に哲学が語られていました。しかも到達したのはやはり仏法の境地であるようで、ようやく四摂法(ししょうぼう)が登場します。
いくつか抜粋します。

『向上心という名の努力をすること、頑張るという名の自己向上を図ること。そして自分の今置かれている状況に満足しないということは、不平、不足と紙一重の差』

『ものの見方というのは、一生涯かけて会得すべきものと私は考えるのです。一つ一つの事件や出来事を、すべて見方によって変えていく。その訓練だと思います。』

本書では「見方道」という新たな概念を提示されているのが印象に残りました。

『世の中の問題点を列挙するよりも、宇宙の楽しい法則や幸せの法則を見出した方が、自分自身にとって楽であり、楽しいものであると思ったからです。』

『楽しい日々を送りたいのであれば、自分から発するものが常に楽しいものであるほうがいいのです。楽しい話を発振すれば発振するほど、自分のところに返ってきます』

2015年7月24日金曜日

疲れたとツいている/ついてる探し

疲れたという言葉の語源に「憑かれた」という説があります。
取り憑かれたことによる疲労ということでしょうか。

一方、ラッキーという意味で使う「ツいている」という言葉も、「憑いている」ということで、幸運に取り憑かれたとも。

同じ憑くでも、そのプラスマイナスは正反対に近く、被害者意識におけるものが「つかれた」で、運が自分に味方していると前向きに捉えるのが「ついている」。

「ついている」に纏わる余談話。

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ついている=ラッキー探しをすることは、人生を前向きに捉えるのに効果的ということに賛同して、このブログもスタートしましたが、何か続かなかった。
現象を抽出していくだけに徹する作業が私は苦手なようです。

結局、その意味するところ、今後に活かすためには? より良い人生のためには? と話がすぐ膨らんでしまいます。

そして、こんな所感サイトに変貌しました。

しかし、改めて、このサイトの内容をFacebookに発信できるかというと、できないものばかりです。裏付けと客観性に欠けるからなのです。

Facebookの発信にはまってしまっているこの頃、良いか悪いか判断はまだ保留です。
対外的に攻めに転じようという点で、この2ヶ月走って来ています。やはり、反応を大変気にします。そして分析してより反応をもらえる記事とトピックスを探します。
実際、たくさんの反応を頂けて喜んでいますが、明らかにその心の中には、不必要な他人の目を気にする心、他と比較する心が芽生えており、自身の目指す仏法と境地から離れていく自分が見えて、どこかで考え方を変えて臨まなければと主張する自分がいます。
まだ結論が出ません。
人間の承認欲求、自己顕示欲、競争心の業を痛感します。

話は戻して、このブログは微妙な自身の心情日記というところでしょうか。

でも、ラッキー探しのラッキーメモを作ることへの思いはまだ残っています。

今日はいつになくとりとめない雑感で。

2015年6月29日月曜日

今、必要な『同事』の心

「『同事』というは、自にも不違なり他にも不違なり。」
と修証義発願利生における四枚の般若のうちの四つ目でいうように、仏法において、自他一如の考え方を同事と言います。

初め、布施、愛語、利行にくらべてどこかその重要性が伝わるインパクトが弱く感じられた同事でしたが、戦争や軍隊を賛美したりする勢力が日本に跋扈するようになった今、特にこの同事の大切さを思います。

自他一如は非常に難しい考え方であり実践であると思います。
他人への思いを、自分への思いと同じところまで昇華させることが同事とすると、果たしてそのような思いを持つことができるのか、と思います。

人生の歩みを追いかけて見てみますと、同事を試されるその第一歩が、まずは両親や兄弟を思う心ではないかと思います。
しかしこれはなかなか難しく、生まれた時から既に存在していた父母への思いは、父母が持つ子への思いの足元にも及ばず、成長過程で客観視することは困難で、倫理的・道徳的な尊敬としての思いが普通でしょう。親のために死ねる、という子どもは普通いない。
兄弟姉妹へ強い同事の心を持つことも正直難しいでしょう。

その後、友情という経験を経ますが、実際朝から晩まで一緒に何年もいる友人というシチュエーションは考えにくく、やはり配偶者を迎えて初めて肉親以外に同事を実感できる他人との遭遇となります。
しかし、この配偶者という存在も相性が悪ければ離婚だ家庭内別居だというケースが山ほどあることを考えると、配偶者への同事心もどこまでの人が持てているかは疑問があります。

そして、人生の最大のステージであると私が考える「我が子を持つこと」。
ここに至って、人は自分よりいつまでも大事だといえる存在に会います。
まさに同事の心が我が子には自ずと湧き上がってきます。

何が言いたいのかというと、同事心を持って生きるには、本当に大事な人が身近にいることが必要なのではないかということです。
それを家族(子ども)を持たずして実践するには、極めて宗教的な自覚を持って生きない限り困難だと思うのです。

そして、同事の心をもし持てるのであれば、戦争を心から反対するほかなくなります。軍隊を賛美することなど有り得ないばずなのです。

大事なのは自分だけ、もしくは自分も含めて大事でない、と思っている人と、同事の心を持つ人との最大の違いは、ヤケを起こせないということだと思うのです。

自分一人で生きている錯覚をもっている人、人生や生活に自分という範囲以上の責任を持たずに過ごしている人は、間違い無く、状況の悪化と追い詰められた場面において、ヤケを起こすことにつながります。
自分を省みると、独身時代、明らかにそうでした。

ただ、 家族の絆以上に外に出られない人間も多いなか、同事は子どもがいればクリアというものではなく、すべての他人にも自分と同じ命があり、大事な関係があり、ドラマがあるということを腹の底から理解できる人生となったときに、初めて同事の心が広く他人に及び始めるのだと思います。

2015年6月25日木曜日

病気になること

死は悪ではないという話をしましたが、病気についても、世の中の常識は、憎むべき敵対する相手という存在として捉えられています。

世の健康ブームなどは、その典型で、健康に無頓着な人間はあたかも自分が悪いくらいのムードですが、実際のところ、健康ブームとはは、精神的不健康ブームとも言い換えられるのではないでしょうか。
それは、健康な人が増えるのではなく、健康に不安を感じる人が増えることだからです。

本末転倒なのは、病気を退治するために、他のすべてを犠牲にするような生き方。病気予防とつなげてしか日々のルーティンの日課を考えられない人もいます。究極は、癌退治で抗がん剤でボロボロになるような類の治療を良しとする考え方と思います。

病気や不具合も受け入れて考えるべきと思うのは、病気や不具合を気にしないで生きていることがいかに楽なことであり、有り難いことかは、病気して不具合を持って初めて心から実感できるからです。

病気や不具合とは、基本「共存する」という考え方を持ちたいところです。

ただし、もう一つ大事なのは、次の真理です。

人間誰も一生に一度、治らない病気にかかるということ(人によっては病気以外の原因で先に亡くなりますが)。
それが「寿命」なのです。

『養生の道はあるが、生まれつき持っていない命を長くする薬はない』(貝原益軒)

2015年6月24日水曜日

誤解は解かない

私は、勢い余って表現の度が過ぎて、知らないうちに、自分が他人を傷つけていることがあるようだ、と知って愕然とし、同時に強烈に自己嫌悪に陥りました。
情けないことに、それに気づいたのはつい40代になってからのこと。

自分の全く本意ではない受け止め方をされて、いわば「誤解」されている状態を、何とか誠意を尽くして説明したい、悪い表現をした自分の行為を謝って和解したい、とその問題解決方法を模索してきましたが、家族のような距離感ならともかく、一定離れた関係の人に唐突に、言い訳とも受け止められかねない行動をする事も得策ではないと思うと、どうしてよいかわかりませんでした。

そこで出会えたのが、以下の小林正観さんの文章でした。

『人に誤解されたら、「あー私は、あの人を誤解していたかもしれない」とその人に思わせる生き方をすればいい』
というもの。

誤解された時の対処方法は次のように書かれていました。

『たとえだれかを傷つけてしまったとしても、自分のせいだとか、あまり考える必要はないと思います。それを思い悩む必要はありませんし、自分がつらく悲しい気持ちになる必要もありません。誤解されていることに関して、一生懸命相手に事情を説明して、わかってもらいたいと思うのはやめましょう』

これは、目から鱗の回答でした。そう割り切った答えがくるとは思いもよりませんでした。

結論はこうです。

『ただひたすら後ろ姿を見せて、「あー私は、あの人を誤解していたかもしれない」とその人に思わせるような生き方を、これからしていけばいいと思います』
『死ぬ前に誤解が解けなくても、それでよし。誰かに誤解されても、それをどうしても「解きたい、解きたい」と思う必要はありません。誤解されたとしてもいつかはわかってくれる、と思いながら生きていけばいいのではないでしょうか。』

ここに決定的な回答があるとまでは言えませんが、少なくとも、今どうしてよいかわからない心の持って行き先を示してくれたという点において、とても気持ちを楽にしてくれた方法でした。


小林正観著『すべてを味方 すべてが味方』(三笠書房)

2015年6月23日火曜日

努力したから報われない

これも、小林正観さんの名言と思います。

以前、流れに身を任せる、という投稿をしました。
http://son-bunji.blogspot.jp/2014/11/blog-post.html?m=1

その続編とも言えますが、
「努力したから報われない 」という世間常識の逆説が真理ではないかと思います。

努力をするのは現状に満足できないから。現状が気に食わないことを公言するのと一緒、と考えます。

これについては八割方の人間から反論が来そうな感じもします。

が、私は賛同します。

思い通りにするため、つまり目標があって、こうしてやるという思いがあって「努力」するわけです。
好きで夢中になっていることに「努力」という言葉は使いません。
途中経過、プロセスを楽しむ、プロセスにこそ意義を持つ場合、やはり努力とは言いません。
あくまでも、結果のため、今の状況から結果を変えるために、歯を食いしばって取り組んでいる状況を「努力」と言います。

そう考えれば、「努力」という行為に何の尊さも私は感じません。
言ってみれば、努力至上主義は自力思想であり、流れに任せつつ、結果を気にせず目の前のことに念を入れて取り組むのが他力思想だと思います。

まだ見ぬ結果ありきの考え方、生き方は、どこか違うのではないか、というのが、何度となく述べてきたことです。

努力は「神への宣戦布告」と正観さんは言いますが、そのとおり、運を味方にできない考え方と思います。だから報われない。

思いを持たず、流れに身を任せ、夢中になれることは十分楽しむ。

「努力しても」でも「努力すると」でもなく、「努力したから報われない」のです。

やはり「他力」がキーワードになってくる気がします。

2015年6月19日金曜日

死ぬことは不幸ではない

多くの人たちが何の疑問も持たずに、特に正義感の塊のような人が強く決めつけて思い込んでいるのが、

「死は悪であり不幸である」

ということです。
多くの社会生活の常識や行動原理が、ここに軸をおいていると言っても過言ではありません。

これに対して、私は異議を唱えます。

医療も福祉も、いかに死なないようにするか、少しでもあらゆる人間の寿命を人為的に延命させるか、ということに何の疑問も持たずに邁進しており、その業界に身を置く人間として、とても違和感を感じ続けています。
私は、苦痛が嫌です。何よりも嫌で恐れています。
医療や福祉は、死をマイナスの結果として捉えたり、延命を目的化するようなことはせず、少しでも生きる上での苦痛を軽減するための方策として発展することが、そのあるべき姿と思います。

災害支援関係者にも、死なずにいられる対策があるはずと、災害死を人為的対策不足として喧伝する人がいますが、これも余計な干渉であり、傲慢だと思います。
天災はそんな人間の知恵の範囲で収まるものなどほとんどないと思います。
防災でなく減災と言ったりしますが、災害支援は、被災してしまった方の苦痛を少しでも軽減するために行うものだと思って自分は取り組んでいます。

勿論、防災に関する知識を持つことがリスク回避につながることはわかりますが、年がら年中災害の場面を想定して生きるなんてまっぴらごめん、という考え方はあって然るべきだし、それによりもし亡くなっても、それを選択する人生はその人の人生で誰も咎めて良い筈はない。
過去の津波被災よりもその日その日の沿岸での生活を大切にして、あえて海沿いに住んで津波に遭遇したとしても、誰も責めては決していけない。

「死は悪であり不幸である」
と捉えてしまうには、死に対して恐怖感があることに起因するのだと思います。

勿論、本能的にも死は怖いです。死に際して多くは苦痛を伴うと考える故に死が怖いとも言えます。

しかし、苦痛は自分にとって悪ですが、「死」は良いとか悪いとか評価などするものではなく、ただただ受け入れるべきものだと思うのです。
いや、「べき論」もこの件については不要です。

世の中に「当然」なものはほとんどありませんが、死は数少ない「必然」の現象です。人間として生を受けた限り、致死率100%ですので。

ですから、早世されたり突然の死が訪れたりすることに対して、異常に死を呪うような言葉を吐く人や、知人の葬式の二次会で「いやあ、健康が第一だよ、ハッハッハ」などと言うがいますが、ああ、この人は生きていることを当たり前と思い込んでいる、死を心の底から自分ごととして捉えられていない、人生に対する思慮の浅い方だな、と思います。

確かに辛い死に出会うことはあります。
自分の身近なましてや誕生が自分より後の人が先に亡くなるのは、やはり悲しさが大きくなるのは事実でしょう。

しかし、繰り返しますが、死は悪でも不幸でもありません。

輪廻や三世の業法を信じるかは別にしても、今生の生が比較的短かっただけなのです。
それを不幸というのは、生き残り側の思い上がり以外の何ものでもありません。ある程度(平均寿命程度)は生きるだろう前提で物事を考えていることに疑いすら持っていない証拠です。

人間は「魂」があって、今生ではこの肉体を借りて人生を営んでいる、と考えることが最も理にかなっており、実際それに違いないと私は強く信じています。

魂は心に直結(イコール?)であり、魂が幸福(しあわせ)を感じることに、この魂の唯一と言ってもよい存在意義ではないかと考えます。

それを突き詰めれば、その人の寿命(どんな死因であれ)に従って、死の到来は受け入れるということだけに尽きると思うのです。

死に方も選べません。死に方の良し悪しも評価対象にするような性質のものではありません。
自分の誕生を自分で評価しようがないのと同様に、死も100%自分ごとでありながら本人は評価しようのないものです。
だから、誰に訪れる死についても、その到来は理由の如何に関らず、そういうものとして、完全中立に受け入れるものなのだと思います。

「死」を完全に中立的に捉えること。
人生のテーマとして、この上なく難しいことですが、最大級に重要な視点ではないかと私は考えています。


『生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし。その時初めて生死を離るる分あり。』(正法眼蔵/道元禅師)
『朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり』(御文章・白骨の章/蓮如聖人)

2015年6月5日金曜日

喜び方の達人になる/マイナスオーラからの脱却

幸福な人に幸福が次々現れる。
その逆もまた然り。

幸せの定義は何度となく書きましたが、幸せを感じられる、つまり、喜び上手な人に幸せが集中していきます。
でも、よく冷静にその現象をみると、同じことがあっても喜べない人もいて、結果その人からはそういう現象は減っていく。
幸福者はドンドン幸福を感じる幅も増えるために、益々幸福が増える。
そして、その人から出るオーラが幸福や善人を引き寄せるのでしょう。

喜び上手に福は集まる。

これは真理と思います。

喜び上手の人は必ずプラスの言葉を発しますから、周辺に幸せ感を充満させます。
片や、文句、課題提起、悪人の糾弾、自己嫌悪、自己卑下、こういう言葉を出し続ければ、間違いなくマイナスのオーラが撒き散らされます。

40年間、真面目に生きることを優先させて、短絡的な正義感を肯定してきたことから、周りにマイナスオーラを出し続けた自分だからこそ、今のこういう自分であり環境なのでしょう。
とても説明がつきます。

しかし、34歳で仏教と出会えて、ものすごくまともに軌道修正されたことは間違いありません。
でも、まだまだ信心も仏道としての実践の甘さが、マイナス要素を消せずにいます。

さあ、ではこれからどう生きていくか。それだけに尽きます。

聖なる空間にあるプラスの力

私は昔からお寺と教会がとても好きな空間でした。お寺は小学校六年生で友人だけで冒険を兼ねた京都旅行をしたとき以来、教会は大学三年の欧州45日間旅行以来。

それらの歴史的価値や芸術的造形美の価値の前知識がそうさせているのだろうと、漠然と思っていたのですが、時を経るに連れて、どうもそうではない感じがしてきました。

やはり、歴史的な長い年月を経ている日本の寺と欧州の教会にだけ、とても強く心震える感覚、包まれるような安堵感を感じるのです。

もともと造形的には、日本の古い街並みだってヨーロッパの城だってとても好きなのですが、寺と教会に感じる心の深くまで包まれる感覚、これはどうやらこの空間に何か他にないものがあるのだと。
静寂がそうさせているのだけなのか、宗教の空間だからしおらしくしていることの影響だろうかとも思ったが、どうもそれだけでもない。

そして、また小林正観さんの説ですが、沢山賞賛を受けて、凄い、素晴らしいと言われてきた対象や空間には、すごいエネルギーが宿る、ということです。

これだ!と思いました。

これまでそこで澄んだ心の人が出入りし、 敬虔な気持ちが積み重ねられた寺や教会に、そういうエネルギーというか、プラスの「気」が蓄積されていると考えれば、合点がいきます。
一朝一夕ではなし得ない重厚な気の空間。
プラスもマイナスも含めた人間の様々な生活空間としての街並みや遺跡と違って、いつの世も、敬虔な気持ちで人々が足を運び、感動や安寧を提供してきた空間である寺や教会が、説明出来ない特殊な雰囲気を保持していることは、これで実に納得できるのです。



最後に、蛇足として。

小林正観さんは、この応用の話として、人間の成長過程での賞賛の大切さを説きます。
場合によっては、自分で自分に賞賛(感謝なども含めたプラスの言葉)を投げかけ続けることで、自分自身がプラスのオーラを出せる人間になると言います。

まだ、これはどうしても実践に移せません。きっと、心の根底に自己嫌悪を持っているからだと思います。

この自己否定感を打破するにはどうすれば良いのか。

色々ここまで書いてきている文章は、捉え直しを狙っているつもりですが、真の自己肯定に至るのは極めて難しいとしか、現時点では言えません…。

2015年6月4日木曜日

「智恵」をもった上で、謙虚に生きる

「智恵」または「知恵」を、知識を日常生活に落とし込んで実践すること、定義したいと思います。

知識について言えば、自分はこれまでも貪欲に得てきた方だと思います(多くは現在取り組んでいる仕事などには直接関係ない、自分の思考の文脈に登場したものというのが一般的な方々とやや違うかもしれませんが、知識欲に対して素直に探求してきたと思います)。
吸収・蓄積した知識は、「智恵」として日常生活に活かされて、初めてその人間のフィルターを通じて新たなものとして生まれ表現されることになります。
ただ、これは世間に役立つかどうかという視点で言っているわけではありません。言葉でも文章でも生活態度でも創作活動でも何でも良いのですが、表現されて初めて智恵となっていくわけです。
そして、多くの場合、智恵を持つ者が世間で認知され、様々な形で求められるようになります。人間の強烈な欲求である承認欲求、求められることを体験すると、これはとてつもない自信と自己肯定感につながります。

この上で、この話の一番大切な点ですが、また小林正観さんの表現をお借りすると、知識・知恵に加えて「謙虚さ(知性)」が大事ということになります。

知識が知恵(実践)となって日常に活かすことができ、自ずと周りから尊敬をされますが、そこで謙虚さを失った途端に、信頼は失墜し、積み重ねの価値は大きく失われてしまうといっても過言ではありません。

仕事上知識を持ち知恵として活躍していれば、世間にとって「役立つ」から、謙虚さを失っても引っ張りだこが続きますので、天狗になってしまった本人は気づけない場合が多いでしょう。

するとますます天狗になっていく。しかし、露骨な自信は見せまいと、器用にそれを表現しないようにして、穏やかに装う人も少なくなく、更にもてはやす輩に囲まれて、内心の天狗度は上がる一方。

だが少し無礼な対応などをされた途端に化けの皮が剥がれ落ちて、「この俺様に何様だ!」となります。何様はまさにあなた本人なのですが。

一つの分野に長く関らせて頂ける縁を得て、自分もそれなりに求められる場面が増えてきた今日、これらのことは深く心に留め置いて、我が振る舞いだけでなく、慢心に陥らない真の謙虚さを意識していきたいと思うのです。

2015年6月3日水曜日

人を裁かない・糾弾しない生き方

人を裁く、という行為。小さくは遠くから批判、次に直接批判、そして糾弾、制裁。
これは正義感が強いほど、どうあるべきかを真剣に考えていればこそ、陥りやすい落とし穴です。

正義、道義に反する人を裁き糾弾したところで変わることはほとんどなく、そこには対立と争い、怒りだけが残ります。

正義の怒り、これは若いときから自分も強く持ってきた経験があり、いまだに多少は大人になったとはいえ、その考え方は残っています。
まず、正義と思っていること自体、多くは主観であり、思い込みが多いことを自覚するべきですが、明らかに正義以前に、極悪と言える事象と遭遇することもあるわけです。

では、そのような場面に遭遇したらどうすべきか。

「反面教師にする」。

ということだけが結論かもしれません。
つまり、そういうことはしないと心に誓う、ということです。
「他人の振り見て我が振り直せ」とは古くからいわれていますね。

この話には、必ず度合いのことを持ち出す人がいて、「お前の家族が殺められてもそう言えるのか」となりますが、反面教師にする、ということに例外はないと思います。
そして、裁くこと、糾弾することは、その場合むしろ他人に任せるべきではないかと思うのです。
その裁きが被害者である自分を幸せにすることは先ず以てないからです。

スマナサーラ師の怒りのテーマや小林正観さんの本、寛容・不寛容を考えたりする中から、改めて整理しました。

今日を振り返っても、他人に怒りを感じて心穏やかならぬ時間をいかに持っていたか。偉そうに書いて、実に恥ずかしい限りです。

私が心得るべきは、いかなる場合でも「他人を裁かない生き方」です。

「き・く・あ」を実践するということ

小林正観さんは、法則の名前をつけるのが好きで、「そ・わ・かの法則」とか、「過去よせての法則」など、色々ありますが、一番良いなあと思ったのが、「き・く・あ」の法則です。

『競わない、比べない、争わない』

という三原則は、ある意味、日本の教育方針に真っ向から背く考え方になります。その教育のもと大人になった人間ばかりが今の社会を動かしているので、いわゆる世間もすべて、「競う、比べる、争う」ことが美談として皆それを当然のように受け入れて日々過ごしています。

私は、この「き・く・あの法則」を大事にすることは、この言葉に出会う前から十分共感を持って捉えてきた方だと思いますが、では、実際、日常生活で実践できているかというと、かなり怪しいことになります。

果たして、自分に都合の良い時だけ、この法則を持ち出していないか。
この三原則を貫けない理由に、人との信頼関係を大事にしたいという大義名分を持ち出したり、 自分を無能と見られたくない、 やらない奴、出来ない奴というレッテルを貼られたくないが故に、これらの原則に相反する仕事の仕方になっているのではないかと思うのです。

ただ、競わない、争わない、というと、頑張らず無理をしないでマイペースで、と解釈されがちですが(小林正観さんも並べてそう表現されています)、微妙に違う気がします。
頑張るとか根性とかがやはり嫌な言葉であることには変わりませんが、やるべきときにやると判断して全力を尽くすことが、結果的に頑張って根性が外に見えてしまうことがあるのではないでしょうか。

ここで否定されるべきは(わかりやすいのは「比べない」だと思いますが)、相対で生きること、自分の判断基準が常に周りにあることが原因で「競う、比べる、争う」という生き方になるのだと思います。

判断基準を世間に持たない。他人からどう思われるか、を自分の生き方の物差しにしないこと。

となると、やはり普遍的な基準は「仏法」というところに求めるしかないといういつもの結論に戻るわけです…。

今の自分に欠けていて一番必要なのは、他人(ひと)にどう思われているかに振り回されず、信じる道(日々の行動の選択)を貫くこと、に尽きます。


『仏法を思惟する』
http://buddhasonbunji.blogspot.jp/?m=1

2015年6月2日火曜日

「刹那主義」で生きる

刹那主義というと、一般には、今さえ良ければ後は知らないという無責任な生き方であり、自分の快楽だけを追求する、決して良い使われ方をしません。

しかし、刹那という言葉自体は仏教用語で、人生にあるのは刹那だけであり、人生はその刹那の積み重ねで構成される、という考え方の根本です。
つまり、本来的には、今、その瞬間を大切にして歩んでいくことが「刹那主義」ということになります。

考えてみれば、我々は今目の前のこと、目の前の人以外、対峙出来るものはないことがわかります。色々先のことを想像したり、勝手に予測したりすることはできても、実際には目の前、刹那としか対峙しえないのです。

そうなると、一瞬、一瞬の刹那、目の前のことをどれだけ大事にできるかどうかが、極論すれば人生のすべてとさえ言えるのです。

「莫妄想」というあまりに有名な禅語がありますが、年を重ねることによって、刹那を大事にできなくなってあれこれと繰り返されるのが「妄想」であり、ほとんど年がら年中妄想の中にいる状態の大人も少なくないと思います。

刹那的な快楽を求めて違法行為とまで行かなくとも、ゲームにレジャーに、と時間の浪費に思えるような過ごし方をする人々も、その最中には「妄想」から解放されるという大きな効用があることを自覚するしないに関らず感じているからという一面があるのではないでしょうか。

妄想からの解放は、私の中では常に意識的な課題でありますが、この刹那を大事にすること、目の前の人、事象を大事にすること以外に、集中すべきものはないと、心得て日々を過ごす姿勢については、日常的には忘れてしまって意識化できていないことの一つです。

これからは、本来の意味での「刹那主義」を意識したいと思います。

2015年5月23日土曜日

感応動交するとき

新潟帰りの新幹線のフリーペーパーで山田五郎氏のアートエッセイを読み、福島県裏磐梯の諸橋近代美術館に東日本大震災以降通って、「改めて芸術は無力で役立たずの戯れ事ではないと確信した」というくだりに大きく共感しました。
人はパンのみに生きるにあらず。苦しい時にこそ美が求められることもあるはず、と。

そこで思い出したのが、自分が偶然にも震災直前の2010年の夏に家族で諸橋近代美術館に行ったことです。
妻と幼い娘は別行動し、まだ小学校二年生の息子と訪れました。
まずは素晴らしい美術館の建物と敷地に感激しましたが、息子が本気でサルバドール・ダリのコレクションに興味を持ってくれ(行く前に家でダリについて予習を一緒にしたのも良かったと思いますが)、夢中になって一つ一つの作品について真剣に会話をしました。

あのときの通じ合った感覚、まさか小学校二年生の息子と芸術の感激や気づきを交わしあえるとは思いもせず、これまで何十と訪れた国内外の美術館訪問の思い出の中でも忘れられないひとときとなったのです。

そこで自分の頭に去来した言葉が「感応動交」というもの。

道元禅師正法眼蔵に登場する言葉で、仏教用語なので、基本、仏や仏弟子間で使うものですが、息子と自分の間にぴったりくる表現がまさに「感応動交」でした。
ただ「共感」という表現よりもっと深く、そうざらにはない貴重な瞬間。
この瞬間は人生最大の喜びの瞬間の一つではないかと思う。
究極、この瞬間、感応動交のための人生なのではないかとさえ思うのです。
そうして、息子の存在に感謝の気持ちでいっぱいとなるのです。

この感激を大事にできる感性を失わないこと、そして感激できる心の扉を閉じないよう心がけられたら、人生多少の事があっても絶望だけはしないのではないかと…。

2015年5月21日木曜日

感動のアンテナを磨き続ける

原点に戻って、感動できることが人生最大の喜びであることを今改めて確認したいと思います。
感動は感謝に繋がり、豊かな人生となることと思います。

そのためには、感動できる感性を磨くこと。
感動にマイナスの感情は欠片もありません。その対極にあるものと言って過言ではありません。

仕事で追い詰められ続けていても、外の方々から色々なところで、適時手を差し伸べていただけた今日。

これを感激、感動と言わずに何と言いましょう。

うまくいかないかもしれないと思っていた仕事仲間が、環境の変化に伴って、素晴らしい活躍をして、自分を本当に助けてくれている。

この一つ一つ、大事に感動したい。

そして、そこから感謝が自然に生まれます。
人生、感謝すべき、というのは間違いで、感動するから感謝が自然に生まれるのです。

一度の過ちをいつまでも許さない人間に固執してはいけないのです。
どれだけそこに力を注いで的外れなことをし続けていたのかと思います。
見せかけの優しさや共感した表現に騙され、味方と思い続けてきてもそれが検討違いのこともある、という経験が自分に必要だったのでしょう。

周りを見れば、ずっと沢山の人々が自分を様々な形で支えてくれていることに気づけます。

目の前の感動こそが縁があることと気づくこと。

原点回帰です。

2015年5月18日月曜日

間違った結婚はあり得ない

『出会った人が運命の人』(山川紘矢、山川亜希子)のタイトル への回答とも言える今回のテーマです。
同書から、スピリチュアルの視点からの考え方をいただき、続いて仏法にも照らし合わせてみました。

結婚に至るには、その相手と只ならぬ縁の深さがあるから、という考え方があります。
裏返せば縁がなければ、結婚には絶対至らない。悪い結婚も、間違えた結婚も、結婚相手を間違えたということも無いのです。

結婚に限らず、この世に偶然はあり得ないという考え方です。

自分の魂に一番良い人と結婚すると考えるのがスピリチュアルの運命論です。
だから、課題のない結婚生活はあり得ないし、問題は相手にあるのではなく、自分の中にある問題が出てきたと考える。

そして、結婚に後悔したとしたら、相手も後悔している。相手は自分の鏡だから。

「この結婚は間違いだった」と自分を棚に上げて早とちりしないことです。

もう一つ、こちらは小林正観さんから拝借して。
結婚を希望する人が結婚できないあるいは幸せな結婚ができないわけ。
それは「結婚」という事柄だけ考えて、目の前のひと、もの、こと、を大事にしていないから。

これは仏法における三世の業法の理にも通じることで、過去も未来も考える必要はない。過去は既に過ぎ、いじることは不可能。明日という日は永遠に来ない。きた時には今日になっているから。

自分たちができることは今の瞬間だけと心得ることです。
(結婚をテーマにする必要もない、万物の真理でしょう)

2015年5月16日土曜日

古鏡としての経典

経文を学び始めて思えば10年という時間が経過し、日常生活から経文が離れ、繰り返すことを怠ってきたために、40近く暗誦できた経文が、もはや10程度(しかも短いもの中心)になってしまい、この40代は明らかに試練を呼び込んで、仏教に照らし合わせて解決することもできない状態が続いてきました。ひとえに、仏法離れがなせる業と納得しています。

経典・経文を「護呪」として、いわば祈りのためと捉えることが多く、陀羅尼などはそう捉えるしかない部分はあるが、いくつかの経文については自分は「古鏡(こきょう)」として捉えることを意識したい。

経文の中にある内容と自分の生き方を照らし合わせて、正しく生きるための指針として読むあり方です。修証義などがこのあり方に相応しい経文の一つです。
暗誦が目的ではありませんので、一言一句を味わい、思惟し、日常の落とすことを心がけたい。

2015年5月12日火曜日

自我を捨て、「負け犬」にならない

勝ち負けという事実は人間社会には必ず存在し、それ自体を否定するのはナンセンスです。
受け入れなければならないが、これをどこまで引きずらないでいけるかということです。
自分は若い時から常にそうなってしまってきましたが、「負け犬」になってはいけません。

ここでいう負け犬とは、負けたことを悔やみ、「なぜ自分が負けなければいけないのか」と怒り、自分の無能さを呪い、見るも無残に落ち込むこと。

それはとことん暗い。

負けて落ち込むのは、俺が負けるとはそんなはずはない…と思っているから。
裏にあるのは自分の過大評価と自我の塊。

そもそも自分の実力などしれている。我々一人一人など世界から見ればゴミみたいなもの。はっきり言ってどうでもいい存在であることを自覚する。
開き直るという言葉はあまりプラスに使われないが、負け犬にならないのに必要なのは、開き直りです。

スマナサーラ師の「怒りのおさめ方」からヒントを得て。

2015年5月7日木曜日

人を遠ざける3つの要素

自分がいっぱしに仕事ができて、技術を持って、ということになって出てくる3つの感情がマイナスを呼びます。
仏教でも十重禁戒など、様々な禁戒があり、それらと重なるものもありますが、これは小林正観さんが整理したもの。

「自己顕示欲」「復讐心」「嫉妬」の3つです。

嫉妬と復讐心は、例えば、他人がちやほやされるのを見て快く思わない、気に入らないことをした相手への仕返しを妄想することなど。
自分に置き換えて考えると、嫉妬と復讐心は負け惜しみなど無しであまりピンと来ないです。自分はほとんどない方なのかもしれません。特に嫉妬はあらゆるところで言われますが、自分はどの事例も正直重なりません。

しかし。
自己顕示欲はそうは行きません。
自己顕示欲は外から見て見苦しいものです。
その特筆すべき事実以上に、自分を認めて欲しいという欲求を表現してしまう。顕示すればするほど人物としての評価は落としていくことになるのだと思います。事実が例え優れていても。

自分もこれまでどれだけこのことで醜態を演じてきたか。
真正面からその行動を批判されることがないが故に、気づかないで自己PRなどと正当化してこれを前に出してしまってきたこと数知れず。

「評価」は自分で表現した時点でダメなのだと思います。それは他人がすることであり、場合によっては自分の耳に届かないで終わるものもたくさんあるのでしょうが、そういうものとして諦めることです。

このことは肝に銘じて、今後の人生をやっていきたいと思います。

2015年5月1日金曜日

宗教の本質は感謝

『商売繁盛を願うこと、良縁祈願すること、家内安全を神仏に期待することは、有り難い日常をくださっている神仏に対して「宣戦布告」をしているようなもの。』という小林正観さんの言葉は強烈です。
ひろさちやさんは、これを請求書の祈りといい、祈りは領収書の祈りでなければいけないと言いました。

ここに宗教の本質があると思います。

多くの日常に根付いている宗教は感謝の祈りを捧げます。
しかし、この国では、誰も彼もが、寺社において、自分に都合の良い請求書の祈りしかしませんし、それを宗教と思い込んでいる状態です。
それが日本教だと知ったように言う学者があとをたちませんが、これは本質的に宗教でも何でもない、迷信レベルです。本気で信じていない点で迷信よりも低い次元の行動と言っても過言ではないでしょう。

日本にも本物の宗教者はいつの時代もいました。
その教えを大事にしたい。

一体となった状態

幸せとは何か、という人生最初で最後で最大の命題についてですが、ある事に対して余念の入る余地なく、そのもの(事)と一体になっている状態が、最も平穏で幸せな瞬間なのではないか、とふと思いました。
人が良し悪しを別にしてトランス状態を求める背景にはこの事実があるからでしょう。

なるほど、例えば音楽に心底共鳴している最中の自分は、その中で一体になっています。そこに雑念はありません。
スポーツもやり方次第では、そのようになる事もあるでしょう。
静かにそれを追求するのに、座禅や瞑想があります。

より複雑化したものには雑念は入りやすいですが、シンプルな世界にこそ一体感というものがあるように思います。

子育ての過程で、夢中に幸せを身体いっぱいに体現して遊ぶ我が子を見守っている時もこれに近い感覚がありました。
子育ては他に代え難い人生の喜びと感じた理由もここにあったのだと、こう整理して改めて気づきました。

共感しあうこと、共鳴することも、他人との一体感を感じることから、幸福感につながっているわけですが、こちらはどこか、そう思いたいという願望に自分を寄せている要素が強くて(恋愛の初期のような)、結局、人と人の共感は部分的だし、あまりにシンプルとは程遠い世界故に、その一体感は刹那的で、幻想的な部分を含んでいるように思います。

2015年4月27日月曜日

縁(運命の出会い)について

人生で出会う人すべてが縁があって、どんな人も人生で会った人は誰もかれも有り難い話、という運命論はどうしても受け入れ難いものがありました。
仏教者でもそう述べる人もいますが、こればかりは、どうしても頷けない教えの一つでした。

実際、自分の記憶力の悪さも手伝って、出会った多くの人について少し経つと何も覚えていないからです。
刻一刻の積み重ねが人生だから、影響を受けていないわけはないし、自覚の有無は関係ないと言われるのもわかるりますが、やはり出会う人すべてが並列の「運命の人」のような言い方には共感できずに今に至っていました。

例えば仕事場でそれなりに一緒にいた期間が長くても印象に残らず、ほとんど影響も与えあっていないだろう人がいる一方で、かなり刹那的な接点しかないのにいつまでも記憶に残り、そこで交わされた経験や言葉に自分が折々考えるきっかけを与えてくれた、そんな存在の人もいるわけです。そうすると、後者の人とは縁があった、という説明にはしっくり来ます。
勿論、記憶の残るかどうかは主観的なものだから、相手は自分の存在などかけらも覚えていないかもしれないし、自分としては記憶さえないすれ違いの方に、自分の存在が強烈な印象を与えていて、向こうにしてみれば、私は大いにその人生において影響力のある人間だったということもざらにあります。
(最近、自分の過去の言動がその方に大きな影響を与えたと感謝などされて、驚きと共にホッとした嬉しさを味わう場面がしばしばあるのです。裏を返せば、悪く受け止められて、以来恨みを持たれていることも少なからずあるのでしょう。知らぬは、自分ばかりという状態で…)。

そう考えれば、「運命の人」であるかは、こちらの自覚の有無がすべてではないことは納得です。

その悩みに、ちょっと嬉しい助言となったのが、山川紘矢氏「出会った人が運命の人」の一節です。

『あなたの「運命の人」は、あなたが選択する人だということなのです。間違いはありません。人は「運命の人」としか、深い関係を築くことはないからです。「運命の人」とでなかったら、深い「縁」は成立しません。』

『自分の直感を大切にして「いい人」だと感じたら、積極的にアプローチし、そのプロセスを楽しむようにしましょう。人生はプロセスが大切だということ、そして人生には失敗がないということです。どんな体験でも、魂が必要とする体験をするようになっているだけだからです。』

こう考えていこうと思います。

2015年4月22日水曜日

怒りを持たないようにするために

久しぶりに小林正観さんの本を読んで。

「正義感、使命感は、相手を憎しみ、恨み、怒り、軽蔑するような人間の心の動きにつながっていく」
これは至極名言です。
正義感とか使命感というものは、自分を律する時以外に振り回してはいけない典型と言えます。

「許す」つまり寛容性についても、このことを自分にも他人にも許す姿勢を持つことが、安穏を呼びます。許さない心こそが怒りを保持し続けて、不幸を呼び込むことになります。

怒りは毒素を持ち、怒る本人の身体をも蝕みます。つまり、怒って一番損をするのは自分だということ。愚痴や不平不満も同列で、身体に良くないようです。

まずは、自分は正しいという考えを捨て、人間という存在は大きな視点で見ればちっぽけで大したことはないと知ること。これが怒りを呼び込まない重要な点です。

そして、試練の話で前述したとおり、人間の心のレベルが上がる時に、一般的に不幸と言われる出来事が続く(つまり試練が続く)ようです。不平不満、泣き言を言いたくなる場面で「来た!」と思って、冷静に観察します。
そこでもなお、喜び、幸せ、感謝を持てるかが、試されるわけです。
私の40代はその試練の時であることは間違いありません。

今の私には恨みつらみはありません。
しかし、明らかに人生を楽しむ余裕の構えに欠けています。目の前の対処に翻弄されている状況です。
自分の無能さにつくづくうんざりしているわけですが、この自分を「無能」と見る裏側には、「自分はもっと優秀であるべき」「他と比較して、相対的に自分は劣っている」という思い上がりと、喜び、幸せ、感謝とは反対の、怒り、イライラ、不平不満に近い、他人の評価を気にする、人間としては未熟な姿が明らかになってしまいます。

自己卑下は、思い上がりの裏返しと心得て、その発想から脱することが今の自分に与えられたミッションかもしれません。

2015年4月21日火曜日

世界一孤独な国/晩婚化や非婚化は肯定できません

話題になったのは随分前ですが、OECDが社会的孤立度を調査した結果、主要20カ国で日本が飛び抜けて一位だったという事実。

正しくない自己愛を強めた結果といえます。

日本人はとことん家族を大事になんてしてこなかった。
ただ、自分だけが生きることに一生懸命になってきた結果なのです。

晩婚化や非婚化、離婚を、あたかも個人の自由のようにいう世間の風潮自体が、この孤立した人間の集団である国家を象徴しています。

人類が今に続いていることを考えれば(言い換えて、今の自分の生に過去からの脈々と流れる事実に感謝する心を持っていれば)、結婚して子どもを育てることは自然極まりないことは言うまでもないことで、どんな後進国と言われる国であっても世界中の人間の常識です。

この話をすると必ずと言って良いほど、結婚できない、子どもができない人の差別であるというような問題のすり替えが行われる、病んだ国民性が現代日本です。

晩婚、非婚を当然のような顔をして済まされたら、まさに「人間の生き方の質、人間性の質が問われる」(佐々木正美さんの言葉)わけです。

孤立した人間に幸福はありません。

家族もしくはこれに準ずる存在がなくて、孤独ではないなんて、強がりの戯言でしかありません。

なぜなら、それは本気で自分以外の人間に自分以上の幸せを願って生きるという要素に欠ける人生だからです。

2015年4月17日金曜日

臨死体験と死を前にした人の気持ちから見える人生のあるべき姿

これまで読んだ臨死体験の本と、死を前にした人の気持ちを取材した「死を前に後悔した25」という本を読み、それぞれに人間の嘘偽りない魂の姿を感じました。本来の人生のあり方の答えです。

死を前に、感情に振り回された一生、他人に優しくしなかったこと、自分が一番と信じたことを猛省するということは、とてもよくわかります。臨死体験を超えた方々の結論と通ずるものがあります。

逆に、健康に気をつけるべきだったとか、自分のやりたいことができなかった(やらなかった)、仕事ばかりだった、遺産を決めなかった、自分の生きた証を残さなかった、というのは、あまり究極の結論とは言い難い。ずいぶん手前で今も目先の欲望や習慣から全然脱していないからこういう結論になるのではないかとも感じます。
それはそうで、死の前まで俗世間から一歩も踏み出せない人も山ほどいることでしょう。誰もが哲学的宗教的境地に達することができるわけがありません。

となると、先の投稿に書いたように、死の前に心の安寧をどれだけ持てたか、つまり、後悔よりも人生に満足と感謝を得てその時を迎えられるか、ということなのではないでしょうか。

とにかく、いつでも命は尽きる可能性があることを忘れず、人生で何が一番大切なのかを常に自分の言動の根底において、現状をきちんと受け止め、試練からは逃げず、自分を取り巻く無数のものへの有り難さとどんなささやかな幸せも見落とさずに味わって1日1日を終えることが大事なのではないか、と確信した次第です。

発達課題〜人生の各年代には乗り越えなくてはならない課題がこなせない課題がある

危機的主題、日本では発達課題というそうですが、「人生の各年代には乗り越えなくてはならない課題があり、それを解決しないと危機的な状況が訪れる」、ということだそうです。

なるほど、と思いました。

思えば、40代になってからは、20代後半の凄い充実感や、30代の子どもたちととともに、また、仏法に出会って、人生を100%肯定してきた時代のかげかたちが消え、東日本大震災の修羅場から仕事に適応できない二年、そして、44歳の最大最多の危機の連続(現在進行形)は、まさに解決していかなければ、というより立ち向かわなければいけない課題と向き合う時期なのだと。

それが出来たかどうかは、死の手前の老齢期に人生に満足や感謝ができるかどうかということです。

死に方やその時期はコントロールできるものではありませんし、死に際の心持ちこそが人生の良し悪しを決めるというのもいささか極論が入っていますし、老後を見据えて今を生きるというのは正しくないと考える自分がいますが、少なくとも、老いて胸に平和と安寧を抱けるか、不安や怒りしか持てないかは、それまでの生き方の総決算が見えるバロメーターにはなる気がします。

何が人生で一番大事かを自問自答しないと解決できないような課題を突きつけられた場面で、どれだけ真剣に向き合って考え、自分なりに行動したか。
これが、重要であることを再確認させられた言葉でした。

2015年4月13日月曜日

「気づかせる」ための試練

ここまで公私ともに追い込まれるような試練が続くと、本気で打開策を考えないと乗り越えられなくなります。

次々と起こる難題と、自分の対応の結果が裏目に出て、自信はなくなる一方。首を傾げるばかりで、今日まで悶々と頭の中を不毛なことがぐるぐると渦巻いていました。

それが今朝、通勤の途中で、改めてこれは

「仏法への参究」

が自分に求められていることを意味するのだ、ということが腑に落ちました。
それに尽きると思いました。

次々と降りかかる試練は、このことに気づくためのものであったのだと。試練がないと、残念ながら、自分には気づくだけの力がなかったわけです。

両親、妻、同僚、そして子どもたちが、自分に投げかけ続けてきた言動は、それを伝えることが自分への意味あいだったのです(勿論、当の本人たちに意図があるわけではなく)。
私は、そのことに気づいて、一から言動を仏法に照らし合わせて見直す必要がありました。

そして、一言で今の自分に必要なことを表現すれば、

「(対自分を含めた)寛容と優しさ(慈悲心)」

ではないかと。
大きな気づきです。

2015年4月10日金曜日

「怒らない」生き方

まず怒りについての真理、ぶれない定義を踏まえた上で、日常にどう落とし込むかが大切です。

・怒りの人生に喜びはない。文句だらけの不幸な人生になる。
・私は怒った、ということは、私はバカです、と同義。怒るのは無知で、適切な判断もできない愚者であることを知る。
・正しい怒りは存在しない。どんな怒りも正当化できない。
・怒りは、自分の心に生まれる感情(生み出しているのは自分以外ない)。
・世の中の破壊の原因は怒り。
・怒りは「私は正しい、相手は間違っている」という考え方に生じる。
・良かれと思ってやったことに結果が伴わなくても当然と受け止める。自分に都合の良い結果を求めるのは無知。世界はあなたの都合など知ったことではない。
・被害妄想概念が怒りを生み出す。
・その妄想概念の原因は「エゴ(我)」(私は○○である)。
・この世のすべての問題は、この(私は○○である)から生じていると言っても過言ではない。
・怒る人は回りに限りなく迷惑をかけている。強烈な恐ろしい放射能のような波動を発する。
・怒る人間は「面子」を持ち出す。それは醜く、空っぽな人間。
・自分が怒ったと思った瞬間、その自分の心を観察すると怒りは消える。それは鎮痛剤で瞬時に痛みが消えるように、快適なはず。


A.スマナサーラ「怒らないこと」参考

2015年4月6日月曜日

承認欲求からの解放

いい評価が欲しい。
これが、人間の最大の欲求であり、最大の煩悩ではないかと思う。

不安から他人の評価を知って自分の身の振り方を反省するなんて言いながらも、結局は他人から良く見られたいという欲求に尽きるのではないか、と思います。

人間の最後まで執着するのは、承認欲求です。

では、これから解放されてみてはどうか。
一切、考えない。
これをすべき、と心に決めたことは、他人からの評価抜きに実行する。

これから、40代後半、自分の目標をここに絞ってみたらどうだろう。

他人からの噂も気にしない。表裏として、他人を一切、噂にしたり、評価しない、という行動があって、初めて成立する目標です。

ここまで、ボロボロの行き詰まった40代。
やってみる価値はありそうです。

2015年4月2日木曜日

「我」について

仏法でいう「我」とは好き嫌いのこと、と表現された高僧がおられました。

他人に批判的、自分は他人と一緒にされたくないという思い上がりの心。
自分が正しく生きることを目指すと、周囲の反面教師が目に付くようになるのは自然の流れですが、それが結果、他人の好き嫌い、他人批判という見方、つまり我を強くしてしまい、余計に仏法に沿った生き方から離れていくという難しさ。

この一年、自分はまさにこの落とし穴にはまっていくつもの信頼を失ってきたように思います。

あるべき姿をしっかり胸にもちながら、それを振り回さないということでしょうか。
しかし、そんなことを意識すればするほど、何も本音で話すことができなくなって、口数もどんどん減っていきます。笑顔もなくなっていくという悪循環。

そんなことより、身近な幸せに目を向けようという志もあるのですが、この情報過多で目まぐるしくストレスフルな日常にすぐに押しつぶされてしまいます。
自分の度量をオーバーした環境にいる限り、このスパイラルから脱することは困難なのではないか、と白旗をあげる一歩手前。

ある僧曰わく、自分を100%と規定するから人を恨んだり自分を卑下するわけで、25%程度の存在と思うことが大事、と言います。他人からの視線に一喜一憂している自分を思うと、本当にその通りと痛切に思うのですが…。

がんじがらめの日常を一度捨てて、自然に戻って沈思黙考する時間と空間をまとめて作らないといけないかもしれないと
、そろそろ本気で思い始めています。

2015年4月1日水曜日

あいさつ

あいさつができるできないということが何かと言われます。 

今朝も近所で朝あいさつをして反応がなありませんでした。
すると、次、その人にあいさつすることをためらってしまいます。

でも、それは違うのでしょう。こちらの声が小さかった。向こうは何か(考え事を含めて)夢中になっていて、自分に向けられたあいさつと思わなかった(実際、目は合っていません)。 
という具合です。

相手の反応あってのあいさつである限り、目下からあいさつがあって当然、というようになり、結局あいさつは消滅していきます。

我が社は、あいさつができる(する)人ほど出世ができず、難しい仕事をこなせない印象があります。主力メンバーは、世間の常識と逆で、揃ってあいさつできません。しかし、だからこそ我が社の居心地が悪いのは理由がわかります。

ちょうど一年前、管理職となって、自らあいさつして雰囲気を作っていくことを心がけるも、数ヶ月で挫折して、また次の4月1日を迎えてしまいました。

もう一度、戻らなければいけません。
まず、ここにおいて仕事のできる奴に本当になれるのか? なりたいのか?
否。外で、より広い世界で、まともでありたい。もっといえば、世間の常識が何であれ、人として全うに生きるべく振る舞いたい。その決断は一度、仏法と出会った時に感謝とともに実感したはず。

ここ数年、自分の思考、行動ともに、仏法からあまりに離れてしまっていました。

2015年度の初日、改めて日々の生活を仏法と照らし合わせて、正しく生きる、振る舞うことを心がける決意をします。

2015年2月20日金曜日

自由と孤独は隣り合わせ

言い得ています。
独身より既婚、既婚より子持ち。
束縛は増え、その自由度は減っていきます。
家庭を持つと、独身者は想像できない地域活動やPTAなども周りに対処すべき事項として増えます。
真面目に家庭人をやればやるほど、仕事とそれらでほとんどの時間が奪われ、現に独身時代に謳歌していた趣味などの時間が10分の1以下になります。

そして、業務の縛りも増え…と、全く自由がなくなるわけです。その代わり、そこに孤独はありません。独りきりの時間は喉から手がでるほど欲しいけれど、普通に自分の周りで自分を必要としている環境に感謝こそすれ、孤独・無用感はありません(忙しすぎて、人生のあり方を問うような場面は正直ありますが)。

そうしてできた家族とまともな人生を歩んでさえいれば(急な不幸はまた例外ですが)、基本的にまた家族は増えて、やはり孤独からはずっと離れていくわけです。

一方、自由を謳歌し続け、それらの渦に巻き込まれることを拒絶する人(既婚者でもそういう人間はいるでしょうが、未婚者は基本該当すると言えます)は、孤独が待ち受けています。若さや美貌などにかまけて孤独をしばらく気にしない人間も気づいた時には同じ時期に束縛の中でやることをやってきた人間とは、人生経験に雲泥の差ができてしまっています。物事によっては、一定の年齢を過ぎてからはもはや経験不能、中に入ったり信頼を得ることができなくなります。

何事も遅いものはないというのは嘘だと思います。
やるべき時期はあり、それは人間としていかに自然体で生きるか、そこにかかっている気がします。

自由と孤独は隣り合わせなのです。

2015年1月22日木曜日

聞くことの大事さ

子育て、部下育ては、言って聞かせる話モードより、聞き手モードの方が効果的とのこと。
プロカウンセラー(東山紘久氏)の本からの学びです。

優しくて親の教えを守る子どもに育てるコツ(我が家の二人はまさに当てはまります。自分でもどうしてここまで精神的に安定した二人なのかが不思議でした)は、「小さい時に子ども中心に遊んでやること」と聞いて衝撃でした。
私がしてきたのは、まさにこれだけでしたから。

また、家族や子どもが心の病にかかることを予防する最良の方法は、「遊んでやることと話を聞いてやること」とのこと。
お父さん、何か面白い話して!という要望に応えられなくて自己嫌悪に陥っていたところですが、話を聞いて遊んであげて12年。これは確実に実を結んだということでしょうか。

プライベート空白の12年とも思って、ここにきて落ち込んでいたのが、一番大事な仕事をやり遂げたのかもしれないと、思えた瞬間です。

2015年1月18日日曜日

この世に「当たり前」なことは何もない

「当たり前」
これは昔から自分のポリシーの一つとも言える考え方で、嫌いな言葉の筆頭にくるものです。

この考え方は、この世の現象や人の行動を、決めつけている(こうなる、こうする)ことに端を発する言葉です。
この世はすべて不確かであり、無常という揺るがない真理があることが腑に落ちていたら、自分にとって素晴らしいとまで言わなくとも、期待した通りのプロセスや結果が現出したら、感謝や感激こそする対象となるはず。
目の前の結果が、「当たり前」のものは何一つないはずなのです。

当たり前の発想を習慣化している人ほど、他人のすることなすことが気に食わず批判的になり、自分に対しても、当然評価を厳しくして、満足感のない、不満や自己嫌悪に満ちた日々を送ることになります。
そんな人々は、必ず多数を絶対視し、協調性の大事さを説いてまわったりします。
それは他人にすれば、思い込みの価値観の押し付け以外ありません。

前回のアドラー心理学でいうところの「課題の分離」の観点からも、他人の評価、他人の言動への口出しは、まさに分離できていない証拠です。
自己嫌悪の傾向の強い人は、この上でさらに「みんな〜」「いつも〜」という、分析不足の一般化を好んで、事態を悲観的、懐疑的に悪く捉える傾向もあるわけです。

2015年1月15日木曜日

共同体感覚(アドラー心理学)と山川草木悉皆成仏

アドラー心理学の神髄は、共同体感覚に尽きるという。この詳しい説明を読んで思ったのは、仏法の山川草木悉皆成仏(山川草木悉有仏性)と同じということです。

自分という存在が最終的に目指すのが仏と捉えたとき、万物(他人という狭い範囲だけでなく)こそが仏性であるという考え方です。これが哲学の根本にあれば、万物が敵ではなくなります。
アドラー心理学の言うことは革命的でも何でもなく、仏法そのものであることがわかります。

こんなものは宗教で、科学的ではないという批判があるようですが、それであれば、科学なんて大したものではありません。結局、宗教は心理学を突き詰めたものなのであって、人間は数千年前にそんな領域に達していた証拠だと思います。

そして、その後に自己への関心を他者に換える、となります。利他の心そのもので、これが人間関係の極意であり、幸福を追求したときの行き着く先としています。
まさに、仏法そのものです。

2015年1月14日水曜日

対人関係の鉄則(アドラー心理学から)

自らの人生について、自分ができることは、「自分の信じる最善の道を選ぶこと」。その選択について他者がどう評価を下すかは、他者の課題であって、自分ではどうにもできないことと心得る。

他者を信じるという行為は自分の課題として考えて実行すべきだが、他者がこちらの信頼や期待にどう動くかは、他者の課題。例え他者が期待と異なる対応をしたからといっても、自分は信頼し続けられるか。自分にとっての課題はその点のみと心得ること。

これが対人関係の極意ということです。