2015年6月19日金曜日

死ぬことは不幸ではない

多くの人たちが何の疑問も持たずに、特に正義感の塊のような人が強く決めつけて思い込んでいるのが、

「死は悪であり不幸である」

ということです。
多くの社会生活の常識や行動原理が、ここに軸をおいていると言っても過言ではありません。

これに対して、私は異議を唱えます。

医療も福祉も、いかに死なないようにするか、少しでもあらゆる人間の寿命を人為的に延命させるか、ということに何の疑問も持たずに邁進しており、その業界に身を置く人間として、とても違和感を感じ続けています。
私は、苦痛が嫌です。何よりも嫌で恐れています。
医療や福祉は、死をマイナスの結果として捉えたり、延命を目的化するようなことはせず、少しでも生きる上での苦痛を軽減するための方策として発展することが、そのあるべき姿と思います。

災害支援関係者にも、死なずにいられる対策があるはずと、災害死を人為的対策不足として喧伝する人がいますが、これも余計な干渉であり、傲慢だと思います。
天災はそんな人間の知恵の範囲で収まるものなどほとんどないと思います。
防災でなく減災と言ったりしますが、災害支援は、被災してしまった方の苦痛を少しでも軽減するために行うものだと思って自分は取り組んでいます。

勿論、防災に関する知識を持つことがリスク回避につながることはわかりますが、年がら年中災害の場面を想定して生きるなんてまっぴらごめん、という考え方はあって然るべきだし、それによりもし亡くなっても、それを選択する人生はその人の人生で誰も咎めて良い筈はない。
過去の津波被災よりもその日その日の沿岸での生活を大切にして、あえて海沿いに住んで津波に遭遇したとしても、誰も責めては決していけない。

「死は悪であり不幸である」
と捉えてしまうには、死に対して恐怖感があることに起因するのだと思います。

勿論、本能的にも死は怖いです。死に際して多くは苦痛を伴うと考える故に死が怖いとも言えます。

しかし、苦痛は自分にとって悪ですが、「死」は良いとか悪いとか評価などするものではなく、ただただ受け入れるべきものだと思うのです。
いや、「べき論」もこの件については不要です。

世の中に「当然」なものはほとんどありませんが、死は数少ない「必然」の現象です。人間として生を受けた限り、致死率100%ですので。

ですから、早世されたり突然の死が訪れたりすることに対して、異常に死を呪うような言葉を吐く人や、知人の葬式の二次会で「いやあ、健康が第一だよ、ハッハッハ」などと言うがいますが、ああ、この人は生きていることを当たり前と思い込んでいる、死を心の底から自分ごととして捉えられていない、人生に対する思慮の浅い方だな、と思います。

確かに辛い死に出会うことはあります。
自分の身近なましてや誕生が自分より後の人が先に亡くなるのは、やはり悲しさが大きくなるのは事実でしょう。

しかし、繰り返しますが、死は悪でも不幸でもありません。

輪廻や三世の業法を信じるかは別にしても、今生の生が比較的短かっただけなのです。
それを不幸というのは、生き残り側の思い上がり以外の何ものでもありません。ある程度(平均寿命程度)は生きるだろう前提で物事を考えていることに疑いすら持っていない証拠です。

人間は「魂」があって、今生ではこの肉体を借りて人生を営んでいる、と考えることが最も理にかなっており、実際それに違いないと私は強く信じています。

魂は心に直結(イコール?)であり、魂が幸福(しあわせ)を感じることに、この魂の唯一と言ってもよい存在意義ではないかと考えます。

それを突き詰めれば、その人の寿命(どんな死因であれ)に従って、死の到来は受け入れるということだけに尽きると思うのです。

死に方も選べません。死に方の良し悪しも評価対象にするような性質のものではありません。
自分の誕生を自分で評価しようがないのと同様に、死も100%自分ごとでありながら本人は評価しようのないものです。
だから、誰に訪れる死についても、その到来は理由の如何に関らず、そういうものとして、完全中立に受け入れるものなのだと思います。

「死」を完全に中立的に捉えること。
人生のテーマとして、この上なく難しいことですが、最大級に重要な視点ではないかと私は考えています。


『生死として厭うべきもなく、涅槃として願うべきもなし。その時初めて生死を離るる分あり。』(正法眼蔵/道元禅師)
『朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり』(御文章・白骨の章/蓮如聖人)