2016年10月19日水曜日

仏教聖典を経営に活かす会

どんな縁が次に現れるかは、ちっぽけな存在の自分には決してわからない。
すべては数珠のように繋がる時がある。

それに気付いて掴みに行くも、逃すも自分次第。

気の遠くなる程の名士だった方々と平場で話が出来る。
二次会は、会長さんはじめ、最年少84歳の空間に一人交じって、話を拝聴する未知の経験をさせて頂いた不思議な夜でした。

仏教伝道センタービルにて、「仏教聖典を経営に活かす会」で。


2016年10月17日月曜日

ふと目にとまった本から、海陽町までつながる

「とと姉ちゃん」の影響で、我が家に最新号の「暮らしの手帳」がおいてありました。

そこに書評があったのが、自殺希少地域を分析する本。なぜ自殺が少ない地域があるのか。

昨日、Amazonなどで探すと、その手の本が二冊世にあり、二冊とも図書館で予約しました。
(「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」「生き心地の良い町」。タイトルだけでも面白そう) 

すると、何と今日、月刊福祉最新号で「生き心地の良い町」とその作者を取り上げていてびっくり!
しかも、その舞台は徳島県の海部町(現海陽町)なのですが、何とそこは、ひと月後に、徳島県社協からお呼ばれして、災害VC訓練の講師として行く町なのです。

徳島市から二時間以上かかるめったに行けないところ。

びっくりの連続。

全てが数珠のようにつながっています。

天の思し召しともいえるところで、何かが文脈を作ってくれていて、それに気づいてはほくそ笑む。
こういう奇跡的偶然を探すのは楽しいものですね~。

2016年10月16日日曜日

宗教と道徳の決定的違い

社会的に有能な仕事をされていても、宗教は信じませんとか無宗教ですと誇らしげに語る人をみると、人としての薄さを見てしまったように思い、残念な気持ちになります。
きっと、世を賑わしたいくつかの新興宗教教団像が「宗教」と直結しているか、よほど具体的に嫌な経験でもあるのかもしれませんが、イコールそれではあんまりでは?と思います。
宗教は往々にして、世間の常識と異なる価値観を持つことがあります。
しかし、世間の常識なるものは時代に左右され、正しいこと・やってはいけないことが真逆になったりします。
戦前・戦中・戦後などを例にするまでもなく、私たちが子どもの時に教育現場で正しい!とされたもので、今の学校では全面否定されているものも少なくない。「道徳」とはそういうものです。
それに対して、人間の心が追求してきた普遍的な価値であり人として生きる指針となるものが宗教。
現代には主流とされない「常識外」の考え方がある理由はそこにあります。
いや、そうで無ければ宗教とは言えないとさえ思います。
「心」と真剣に向き合う時、宗教とか人智を超えた存在を無視することは私はできません。
人生、倫理観や世間体や法律なんて枠に収まる筈はない。
「人智を超えた存在を感じること、そして祈る心を持つこと」。
畏敬の念こそが宗教心なのだと。そこに行き着きます。

2016年10月9日日曜日

教育方法=価値観の違いを痛感する

全国学力テストの県別の成績は、小中学校各教科とも毎年のように、秋田県と北陸の富山・石川・福井県が他県に優れていることがはっきりしている。
http://mainichi.jp/scholartest2016/
ここまで明確な差が出ることの意味は、教育は手法次第で結果が出るということ。
先日、秋田の教育の特集がTVで放映されていた。
学校から帰って、子供たちは学年を超えて集まれる児童館がある。開放的で沢山書籍があり、広々と宿題などを拡げて、お互いが教え合う風景。小学校一年生から「勉強、楽しい!」といえる空間。
学校の先生もわからないことを尋ねれば親身になって教えてくれる。
フィンランドの教育方針にも憧れたが、国内にも光はあった。
***
娘が秋田県大潟村から感激して帰って2か月。
文通やプロフィールの交換などをはさんで、昨日・今日は、心待ちにしていた大潟村の子供たちと浦安市内で交流し、さらに仲良くなった。
彼らとの交流が忘れられないものになった理由は、本当に良い子たちだったから。
友達おもい、やさしさ、まっすぐで、心から笑う笑顔がたえない。
これが何を示しているのか。
同じ方向を見て、励まし合ったり教え合ったり、そんな相乗効果が存在する環境が子供たちの学力を支えているのではないか。成長期に精神的に健全な環境の大切さ。
ここの小学校においては、わからないことがあるとすかさず「そんなのもわかんねーのかよ、バカじゃねーの」という罵声をを浴びせあう級友たちから身を守るのが精一杯だという。
できたらできたで「調子に乗ってんじゃねーよ」。
相手を蔑み、見下し、放課後も塾通いで交流がないクラスメイト。クラスにあるのは「嘲笑」という種類の笑いばかり。それが日常となっているここの小学校は、友情を育むとかいう以前の話である。
浦安の親の収入とエリート意識とプライドは、おそらく突出して高い。だから塾に行きまくる。
といって、その子供たちがさして成績優秀なわけでもない。
でも塾で先に授業内容を知っているから、教師の話は聞かないで騒ぎ、授業は成立しない。
今年、広島から越してきた父兄から、先日囁かれた。
「この学校、学級崩壊していますよね?」
授業参観日は親の前では普段と全く違う態度でしおらしく、したたかに使い分ける子供たち。その子どもの裏表に気づけない親たち。無力な教師たち。
学力の差から話をしたが、詰るところ、学力の上下なんてどうでもいい。
それに連動して人間力がものすごく低いという危機感に尽きる。
娘の交換して集めているプロフィールを見させてもらって愕然とした。
価値観の置き所が浦安と大潟村の子供たちで正反対だった。
見た目(ルックス)や勝ち負けが一番の関心事に対して、一方は優しさや友情が大事だという。
「底辺」にいる娘からみえた秋田の子供たちとの交流は、どれだけ美しいものに映るのか。
大潟村から帰った娘がすかさず秋田に引っ越したいといったのは、一時的な感傷からではなかったことはわかっていた。それが一過性の思いつきだったらどれだけ良かったか。
心から楽しそうにこの二日間を語る娘の姿を見て、良かったね! 友達がたくさん増えたね!と精一杯共感しながらも、日常の現実に頭を抱えるしかない自分がいる。

2016年10月7日金曜日

性善説と性悪説

人の捉え方には性善説と性悪説ありますが、自分は徹底した性善説主義者と思います。
物事、何でも性善説に基づいて仕組みが作られたら良くなるのに、としばしば考えます。
ボランティア・市民活動の行動力・善意は本当に素晴らしく、そこを支える仕組みも生まれたりします。
しかし、そこに資源を投入しようとすると、制度を悪用するごく僅かの側に焦点を当てて、リスク管理とか事故防止とかもっともらしい言葉と共に、使いにくいものにしてしまう。
特に一刻を争う場面にも関わらず、性悪説からものを考える人がいっぱい。
その行為により、助けられるものがどれだけ助けられなくなることか。
そのペンディングや時間稼ぎが、どれだけ末端に深刻な影響を及ぼしているか想像が及ばないようです。
その判断によって、自分や自分の家族は痛くもかゆくもないから、そうするのだと思います。
「自分事」と思わない人が、関係する人の命運をいたずらに左右できる位置にいることは、とても不幸なことです。
自分や自分の大切な人が依頼人だったら、と考えることはできないのか。
その助けを必要とする人に寄り添った柔軟な判断を下せないのか。
…と性悪説が好きな人たちを見て思います。
自己保身や、面倒だから、という本心が丸見えだったりします。
悪用する奴がいるから悪いという。
じゃあ、その制度なり支援策がなぜ生まれたのか、一度でも本気で考えたことがあるのでしょうか。
自分が苦しんで生み出したものでも同じセリフを口にできるのでしょうか。
ルールを作る側になれば分かりますが、誰もが納得できる完璧なものを作ることは不可能です。
仮に、どこかに落ち着きどころを設定して作るしかない。
突き詰めれば、あらゆるものがケースバイケースというのが現実なのだと。
ルールとは、実態に対して「仮」の設定ということが大前提としてあると考えます。
世を良くすることが目的なのか?
ルールの文字面を死守すること自体が目的なのか?

2016年10月2日日曜日

自分の顔に責任を・・・怒りのコントロール

怒りの沸点が低いのが最大の欠点なのに、治らない自分。

カチーンと、許せないスイッチが入ってしまう時に自動的に発動されてしまう。

ただ、そのポイントが世間一般とズレていることが、最近わかってきた。
人が怒ったり嫌うものにはあまりそれを感じない一方で、何でそのことで私がそこまで怒るのかよくわからん、そういうことらしい。

常識的行動がとれない人、能力が及ばない人、失礼な人、怠惰な人、鈍感な人、スローな人…、様々人を怒らせるパターンはあるが、それら自体が“許せん”となることはほとんどない。そう見えるけれど、何かそこにはきっと文脈があって、見えているのは一面かも、と思いとどまるから。

では何に引っかかるのか。

自己陶酔系、自信過剰系、他人を眼中に入れない自分本位のいわゆる“自分様”の上から目線。
それが上記の現象の裏に存在することを感じた途端、スイッチが入ってしまう。
「何様だ?」と。

そういう厚顔無恥な人間は放っておけばよい、恥ずかしい思いをするのは自分だから、と達観したアドバイスなどされるが、それが出来るなら今の自分の悩みはない。

思い出しても腹が立つようなことが連続して、胸のつかえが最近ひどい。それが顔に出ている。

今日の授業参観で「あなたの旦那、険しい表情しているけれどどうしたの」とママ友に囁かれたと妻。

あれこれ考えていたんだろうと思うが、休日にそんな表情しているなんて、かなり問題。

「男は40歳を 過ぎたら、自分の顔に責任を持て」とリンカーンが言ったとか言わないとか。
その顔が今の自分の中身なんだよな。これはマズいぞ。