2015年11月19日木曜日

ありがとうの対義語当たり前(再投稿)

「ありがとう」は「有り難う」、つまり滅多にあることではない「有り難い」という意味から派生しています。
では、その対義語はなんでしょう。
『当たり前』
という解釈があり、なるほど!と思いました。
当たり前という言葉は、その響き、使う文脈によっても良い印象が持てない語です。使う側の上から目線や決めつけが後ろに見え隠れするからです。
福祉の業界では「当たり前の生活」というような言葉を使う側が肯定的に用いますが、私は違和感を感じてきました。人権や社会運動などの分野でもよく耳にします(これが口癖にさえなっている人もいますよね)。
「当たり前」という語に含むところは、この世の現象や人の行動を、決めつけている(こうなる、こうする)部分が少なからずあろうかと。
でも、人類誕生して以来、この世はすべて不確かであり無常という揺るがない真理があります。
このことが腑に落ちていたら、自分にとって素晴らしいとまで言わなくとも、期待した通りのプロセスや結果が現出したら、感謝や感激こそすれど、当たり前などと思えないはず。
目の前の結果が「当たり前」のものは何一つないのではないでしょうか。
当たり前はなく、すべては「有り難い」。
そう捉えていきたいです。

2015年11月11日水曜日

個人プレイって何?

根本的なこと。
発災により、ある日突然日常が破壊され、混沌に放り込まれた被災者(地)からの悲鳴(ジッとしていては聞こえない悲鳴も沢山ある)に応えるには、業務をこなすという次元では立ち向かえないこと。
このこと抜きにより良い支援の体制づくりを語っても空虚にしか聞こえない。
ひとは、個人プレイには限界があるから仕組みにしないとダメという。
自発性と共感性に頼りつつ、多様なバックボーンを持つ関係者と信頼関係のもと、チームワークでそれぞれが「主体的に」役割を果たすという、現状行き着いた支援の進化系を目にしている。
それを個人プレイというならば、それ以上に機能する“仕組み”とは一体どんなものを指すのだろうか。
支援の「担当」者(被災者のように追いつめられた立場でない)が、災害時の情報量とスピードの荒海に身を投げ出すことなしに、今以上の機能的支援を実現する美しい仕組みが本当に存在しうるのか。 
結局、繰り返し支援に関わり、実質的な被災地への助けとなっている方々を見わたせば、前述した根本に共鳴している者同士であって、業務感覚でこなしている人たちや仕組みの中でしか動かない人ではないんだと思う。
それが災害時の支援の特異性であり、被災地から被災地へのバトンと言われるもの。
専門家の力は被災地ではもちろん必要だし、上からかぶせる仕組みや安定的供給が約束される財源の裏付けも重要なのはよくわかる。
でも、次々と降りかかってくる課題に立ち向かって臨機応変に判断をしていく、ある意味民間支援の何でも屋であるボランティアセクターの支援においては、資格やマニュアルのようなアプローチが最も馴染まない。

2015年11月7日土曜日

不寛容な社会を作る一般的「真面目な日本人」

本能的にも精神的にも人は幸福たることを目指して生きています。
では、幸福とは?
幸福度を示す調査には主観系と客観系があります。
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◆客観系(2015年国連調査) 
日本は46位
2015年の国連調査の幸福度指数。経済学者らが国民1人あたりの実質GDP(国内総生産)、健康寿命、社会的支援、人生選択の自由度、汚職レベルの低さ、寛容度を変数として幸福度を割り出したもので、調査対象となった158か国中、1位はスイス、2位はアイスランド、3位はデンマークと相変わらずヨーロッパがトップを占めており、日本は46位で昨年の43位から順位を下げた。
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◆主観系
▽レスター大学調査(178国):日本88-91位
▽ワールド・バリュー・サーベイ(97国):日本43位
▽ワールド・データベース・オブ・ハピネス(146国):日本49-50位
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戦争に巻き込まれることもなく、これだけ物が溢れる社会に生きて、その境遇に感謝こそすれ、幸福度が高くておかしくないはずなのに、なぜ、この国に生きる人が幸福を感じていないのでしょう。
しかし、根本的に「幸福」とは、なるものでもつかむものでもなく、感じるものだということがあります。
調査結果などを並べましたが、結局はその人の主観がすべてだと思います。
経済指標など、正直幸福感とは全く関係ないと言っても過言ではありません。自分が20代に世界30カ国を旅して確実にわかったのは、そのことです。
この真理は生きる上で極めて重要と思います。
主観的幸福度は、「個人に対する社会の寛容度」が大きく影響しているという説もあり、それにはとても共感します。
不寛容な現代日本社会がこの低い主観的幸福度に現れているわけですから。
ただ「不寛容な現代日本社会」と、社会に責任を押しつけて終わってはいけません。
なぜなら社会とは人で構成され、不寛容な社会を作っているのは個々の日本人だからです。
自分は真面目に仕事をしている、コンプライアンスを遵守し正しいことをしている、業者には完璧を求める、規則に外れるものには厳罰を…。
そうやって社会が求める風潮に素直に対応してきている人たちが、社会を更に不寛容にしている最大の功労者ではないかと思うのです。
社会を牽引する位置で、仕組みや法やトレンドに疑問を持たずに仕事に走り続ける人がいればいるほど、不寛容さ・閉塞感に拍車がかかるだけ。
いつも以上にクドクド書いてきましたが、自分が言いたいのはこの最後の点に尽きます。

2015年11月4日水曜日

支援者のスタンス

昨日、久々に子供たちを連れての両親訪問をした。

妻と両親の断絶から子供たちを連れて行くにも非常なぎくしゃくが続いており、腹を割って説得、訪問の意味を伝えて、和やかな訪問ができたわけだが、今朝、断絶の根本が閃くように突然みえた。

支援者のスタンスだ。

災害時の支援スタンスとそれは全く一緒で、支援者側の思いが受ける側が受け止め切れなかったところに、決定的な結末を迎えることになったのだと。
まさかの家族関係の落とし穴がここにあったとは。 

朝、1ヶ月半に渡って伸ばしてきた髭を剃った。