2015年11月11日水曜日

個人プレイって何?

根本的なこと。
発災により、ある日突然日常が破壊され、混沌に放り込まれた被災者(地)からの悲鳴(ジッとしていては聞こえない悲鳴も沢山ある)に応えるには、業務をこなすという次元では立ち向かえないこと。
このこと抜きにより良い支援の体制づくりを語っても空虚にしか聞こえない。
ひとは、個人プレイには限界があるから仕組みにしないとダメという。
自発性と共感性に頼りつつ、多様なバックボーンを持つ関係者と信頼関係のもと、チームワークでそれぞれが「主体的に」役割を果たすという、現状行き着いた支援の進化系を目にしている。
それを個人プレイというならば、それ以上に機能する“仕組み”とは一体どんなものを指すのだろうか。
支援の「担当」者(被災者のように追いつめられた立場でない)が、災害時の情報量とスピードの荒海に身を投げ出すことなしに、今以上の機能的支援を実現する美しい仕組みが本当に存在しうるのか。 
結局、繰り返し支援に関わり、実質的な被災地への助けとなっている方々を見わたせば、前述した根本に共鳴している者同士であって、業務感覚でこなしている人たちや仕組みの中でしか動かない人ではないんだと思う。
それが災害時の支援の特異性であり、被災地から被災地へのバトンと言われるもの。
専門家の力は被災地ではもちろん必要だし、上からかぶせる仕組みや安定的供給が約束される財源の裏付けも重要なのはよくわかる。
でも、次々と降りかかってくる課題に立ち向かって臨機応変に判断をしていく、ある意味民間支援の何でも屋であるボランティアセクターの支援においては、資格やマニュアルのようなアプローチが最も馴染まない。