2016年12月30日金曜日

人を裁くという行為

様々な異なる場面での出会った方々とFacebookでつながることができたことで、政治信条としては所謂左右両方の方の発信を目にすることになった。
SNSでは、多くはリンクのシェアなど元の発信人は知らない人ものだが、誰かを糾弾する話題において、すごい数の人がコメントをしている投稿に出交すことがある。
そこでは感情に任せて残念な表現をひたすら上塗りし、その罵詈雑言からは破壊や断絶以外生み出さないことが明確にも関わらず、同じ立場の人間でその中の少数派を完膚なきまで叩きのめすことに快感を求めて集まっているのを目にすると、不愉快を通り越しておぞましさを感じる。
一昔前の匿名が2ちゃんねるで書き散らしているものと違って、実名で仲間意識をもって吐き捨てていることがまた暗澹たる気持ちにさせられる。
今日、純粋に利他の心をもって支援に奔走している仲間が、言われもないレッテルを貼られ、書き込みで次々と知りもしないで罵詈雑言をたたきつけられるのを目にして、やり場のない怒りがこみ上げた。
***
人を裁く、という行為。
小さくは遠くから批判、次に直接批判、そして糾弾や制裁。
これは正義感が強いほど、自分は正しいのだと信じて疑わなければこそ、陥りやすい落とし穴である。
しかし、まず正義と思っていること自体、多くは主観であり、思い込みだと自覚すべき。
正義、道義に反する人を裁き糾弾したところで、そこには対立と争い、反発と怒りだけが残る。
***
怒りといらだちが不毛なのは分かっている。
上記に怒りがこみ上げたと同時に、自分も、それで近くの人を散々傷つけてきたことを思い返す。
特に自覚のないところで。ひどく。
ネガティヴな感情を表現するたびに痛切に自己嫌悪に陥ることを繰り返してきた。
わかっていたけれど制御できなかった自分が、ほとほと嫌だ。
吐けばすっきりするなんて嘘。
他人に批判的、他人とは一緒にされたくないという思い上がりの心。
自分が“正しく”生きることを目指すと、周囲の反面教師が目に付くようになる。
結果、他人批判、つまり「我見」を強め、余計に“正しくない”生き方に陥るというジレンマ。
この一年、自分はまさにこの落とし穴にはまって、思い上がり、いくつもの信頼を失ってきた。
自分を100%と規定するから人を恨んだり自分を卑下するわけで、25%程度の存在と思うことが大事、とある僧の言葉。
その通りと痛切に思う。
しかしながら、今日の出来事のように、明らかに正義とかの以前に、極悪と言える事象と遭遇することもある。 そのような場面に遭遇したらどうすべきか。
「反面教師にする」ことしかない。
極めてシンプルだが、自分はそういうことはしないと誓うこと。「他人の振り見て我が振り直せ」。
この話には必ず度合いを持ち出す人がいて、「じゃあ、お前の家族が殺められたり人災に見舞われてもそう言えるのか」となるが、反面教師にする、ということに例外はないと思う。
そして、その場合むしろ、裁くことは他人に任せるべきではないか。
その裁きが被害者である自分や仲間を幸せにすることはまず以てないから。
今日を振り返っても、ヘイトクライムな人種を殲滅させてやりたいと”裁く”自分がいた。
自分が心得るべきは、小さなことも含めて「他人を裁かない生き方」と思い返す。
何とも後味の悪い年の瀬、あと数時間で迎える新年まで、まずはこころを静かに迎える準備をしたいと思う。

2016年12月24日土曜日

地図帳研究

昭文社、平凡社、帝国書院、成美堂出版、二宮書店というような地図専門の会社の地図帳を色々買ってきて、一長一短があるが、結論としては以下のとおりなので、備忘として。

◇日本地図:昭文社。

都道府県ごとで特に市町村の境界線と自治体の区分が見えやすいという点において、日本地図は昭文社が一番。

◇世界地図:平凡社。
世界地図だけでの本を複数出しているだけに、見やすい。

帝国書院は小学生から見慣れた様式だが、妙に字体が古めかしいのが特徴。
成美堂出版は見にくい。

2016年12月20日火曜日

「上から目線」

「上から目線」。

本日の全国域の会議で出たワード。

私たち全国組織や官僚の方々が気をつけたいのは、「上から目線」と受け止められる言動。

「社協」でいうと、現場の市区町村は対住民にはっきりとしたミッションがあって、広域でないと担えないことがあるから都道府県があって、国(政策・制度)とのラインや統一した大きな方針や指針を必要とするから我々全国がある。

それぞれがそれぞれの立ち位置で「役割分担」をしているに過ぎない。
なのに「自分は上」、また逆も然りで「自分たちは下」と考えてしまう人がいる。

これと同じ構図はあらゆるところにあって、あちこちで耳にする。

普段から陰で末端を見下す発言をしていれば、外面は慇懃無礼に振る舞ってもすぐ見抜かれるが、そうでなくても落とし穴は無数にある。 

たとえ、当の本人にはそんなつもりがなくても、言葉尻、態度一つで「上から目線」という評価が飛んでくる。

「断定的な言い方だな」「随分な自信家だな」「難しい言い回し使いやがって」…。
はたまた「にこりともせず表情に乏しい人だな」程度の印象も、「上からの態度だよな!」となり兼ねないことを痛感すること数多い。

でも、残念ながら自覚が足りない人間も周りに少なくないから、
「全国の人間? 話もしたくない」と、全国域の人種に悪しきイメージが出来あがっていて、初対面から反発的に接せられる経験も一度ではない。

誤解を生まないためにも、自分がやっているあらゆることを、何のため誰のためと捉える作業を常に怠らないこと、支え支えられる関係性に想像力を働かせることが、大切な気がする。

協働・協力・連携という関係において、自組織本位であったり、いち業界の狭い常識を振り回すような思考は戒めねばと、自戒をこめて思う。

2016年12月1日木曜日

優しい人になるための「ほうれんそう」

優しい人になるための「ほうれんそう」があると新聞投稿された方がいらっしゃいます。
ビジネスの報告・連絡・相談ではなく。
「奉仕」「恋愛」「想像力」。
「奉仕」は見返りを期待しない行為(仏道におけるの布施のような)と捉えたら、納得。
「恋愛」…これも見返りを求めない恋愛でないと。難しいでしょうね(笑)。でも過程で優しさは不可欠。むしろ失恋の方が優しさを学ぶかも(^^ )。
「想像力」。極めて大事。これが欠けた優しい人は存在しないでしょう。
3つに共通して言いたいだろうことは、自分を持て余していっぱいいっぱいではダメということ。
他人に関心を寄せられる心の余裕を持てることなんだと思います。
“自分様”の対極ですね~。

2016年11月30日水曜日

イクメンなんて言葉は不要

朝のNHKで見かける「増えるイクメンブルー」に唖然。
女性が胎内で長くに渡って子どもを育くみ、生死をかけて出産するという、人類の最も尊く大きな仕事をすることに伴うマタニティブルーや産後うつというのは、当然それだけの代償は払っているわけで、伴侶である男はそのことを教えてもらわないと分からないから、周知されるのは大事。
しかし、「イクメン」が「ブルー」?
結論は社会が子育てする男親にもっと理解を、残業の少ない社会に・・・。
それは確かにごもっともだけれど、そのこととブルー(育児への時間と労力が大きくて鬱でつぶれる)は話のすり替えのように感じる。
残念ながらそんな人は、育児に直面しなくても、(ストレス要因とされる妻や上司等との)コミュニケーション力の低さや問題解決能力の低さなどに問題があって、ストレスある環境に置かれたら多かれ少なかれ同じことになっているのではないかと思える。
私の大嫌いな言葉「イクメン」。
子どもが幼少の時に「積極的に子育てを楽しみ、自らも成長する男性を指す。」らしいが、それではイクメンブルーという言葉は矛盾を起こしていることになる。
過去多くいた母親任せで無責任な日本の父親は、根本的に人ととして問題があっただけのことで、男も、一人の人間が生まれて成長することに目を向けるという正常な状態になっただけのことを、あたかも女性の社会進出を特別視するかのごとくの言い方。
長男が幼稚園のころ、ママに相談した言葉を思い出した。
「僕がもっと(仕事で忙しい)お父さんと遊んであげるにはどうしたらいいだろう」
「お父さんは僕がいないとダメになっちゃうから」
子どもは親を支えてくれるんです。
子どもが5歳なら親も5歳(5年生)でしかない。
育児は育自であり、双方向。
例え子どもがオムツをつけていたりごはんを食べさせてあげないといけない乳児の時も、そこから親が得られる他のどんな行為からも得ることができない人生の学びを与えてくれる子どもの存在は、大人が一方的に子どもの面倒を見てやっているなんていう種類の行為ではないんです。
イクメンなどという言葉が死語になることを願います。

2016年10月19日水曜日

仏教聖典を経営に活かす会

どんな縁が次に現れるかは、ちっぽけな存在の自分には決してわからない。
すべては数珠のように繋がる時がある。

それに気付いて掴みに行くも、逃すも自分次第。

気の遠くなる程の名士だった方々と平場で話が出来る。
二次会は、会長さんはじめ、最年少84歳の空間に一人交じって、話を拝聴する未知の経験をさせて頂いた不思議な夜でした。

仏教伝道センタービルにて、「仏教聖典を経営に活かす会」で。


2016年10月17日月曜日

ふと目にとまった本から、海陽町までつながる

「とと姉ちゃん」の影響で、我が家に最新号の「暮らしの手帳」がおいてありました。

そこに書評があったのが、自殺希少地域を分析する本。なぜ自殺が少ない地域があるのか。

昨日、Amazonなどで探すと、その手の本が二冊世にあり、二冊とも図書館で予約しました。
(「その島のひとたちは、ひとの話をきかない」「生き心地の良い町」。タイトルだけでも面白そう) 

すると、何と今日、月刊福祉最新号で「生き心地の良い町」とその作者を取り上げていてびっくり!
しかも、その舞台は徳島県の海部町(現海陽町)なのですが、何とそこは、ひと月後に、徳島県社協からお呼ばれして、災害VC訓練の講師として行く町なのです。

徳島市から二時間以上かかるめったに行けないところ。

びっくりの連続。

全てが数珠のようにつながっています。

天の思し召しともいえるところで、何かが文脈を作ってくれていて、それに気づいてはほくそ笑む。
こういう奇跡的偶然を探すのは楽しいものですね~。

2016年10月16日日曜日

宗教と道徳の決定的違い

社会的に有能な仕事をされていても、宗教は信じませんとか無宗教ですと誇らしげに語る人をみると、人としての薄さを見てしまったように思い、残念な気持ちになります。
きっと、世を賑わしたいくつかの新興宗教教団像が「宗教」と直結しているか、よほど具体的に嫌な経験でもあるのかもしれませんが、イコールそれではあんまりでは?と思います。
宗教は往々にして、世間の常識と異なる価値観を持つことがあります。
しかし、世間の常識なるものは時代に左右され、正しいこと・やってはいけないことが真逆になったりします。
戦前・戦中・戦後などを例にするまでもなく、私たちが子どもの時に教育現場で正しい!とされたもので、今の学校では全面否定されているものも少なくない。「道徳」とはそういうものです。
それに対して、人間の心が追求してきた普遍的な価値であり人として生きる指針となるものが宗教。
現代には主流とされない「常識外」の考え方がある理由はそこにあります。
いや、そうで無ければ宗教とは言えないとさえ思います。
「心」と真剣に向き合う時、宗教とか人智を超えた存在を無視することは私はできません。
人生、倫理観や世間体や法律なんて枠に収まる筈はない。
「人智を超えた存在を感じること、そして祈る心を持つこと」。
畏敬の念こそが宗教心なのだと。そこに行き着きます。

2016年10月9日日曜日

教育方法=価値観の違いを痛感する

全国学力テストの県別の成績は、小中学校各教科とも毎年のように、秋田県と北陸の富山・石川・福井県が他県に優れていることがはっきりしている。
http://mainichi.jp/scholartest2016/
ここまで明確な差が出ることの意味は、教育は手法次第で結果が出るということ。
先日、秋田の教育の特集がTVで放映されていた。
学校から帰って、子供たちは学年を超えて集まれる児童館がある。開放的で沢山書籍があり、広々と宿題などを拡げて、お互いが教え合う風景。小学校一年生から「勉強、楽しい!」といえる空間。
学校の先生もわからないことを尋ねれば親身になって教えてくれる。
フィンランドの教育方針にも憧れたが、国内にも光はあった。
***
娘が秋田県大潟村から感激して帰って2か月。
文通やプロフィールの交換などをはさんで、昨日・今日は、心待ちにしていた大潟村の子供たちと浦安市内で交流し、さらに仲良くなった。
彼らとの交流が忘れられないものになった理由は、本当に良い子たちだったから。
友達おもい、やさしさ、まっすぐで、心から笑う笑顔がたえない。
これが何を示しているのか。
同じ方向を見て、励まし合ったり教え合ったり、そんな相乗効果が存在する環境が子供たちの学力を支えているのではないか。成長期に精神的に健全な環境の大切さ。
ここの小学校においては、わからないことがあるとすかさず「そんなのもわかんねーのかよ、バカじゃねーの」という罵声をを浴びせあう級友たちから身を守るのが精一杯だという。
できたらできたで「調子に乗ってんじゃねーよ」。
相手を蔑み、見下し、放課後も塾通いで交流がないクラスメイト。クラスにあるのは「嘲笑」という種類の笑いばかり。それが日常となっているここの小学校は、友情を育むとかいう以前の話である。
浦安の親の収入とエリート意識とプライドは、おそらく突出して高い。だから塾に行きまくる。
といって、その子供たちがさして成績優秀なわけでもない。
でも塾で先に授業内容を知っているから、教師の話は聞かないで騒ぎ、授業は成立しない。
今年、広島から越してきた父兄から、先日囁かれた。
「この学校、学級崩壊していますよね?」
授業参観日は親の前では普段と全く違う態度でしおらしく、したたかに使い分ける子供たち。その子どもの裏表に気づけない親たち。無力な教師たち。
学力の差から話をしたが、詰るところ、学力の上下なんてどうでもいい。
それに連動して人間力がものすごく低いという危機感に尽きる。
娘の交換して集めているプロフィールを見させてもらって愕然とした。
価値観の置き所が浦安と大潟村の子供たちで正反対だった。
見た目(ルックス)や勝ち負けが一番の関心事に対して、一方は優しさや友情が大事だという。
「底辺」にいる娘からみえた秋田の子供たちとの交流は、どれだけ美しいものに映るのか。
大潟村から帰った娘がすかさず秋田に引っ越したいといったのは、一時的な感傷からではなかったことはわかっていた。それが一過性の思いつきだったらどれだけ良かったか。
心から楽しそうにこの二日間を語る娘の姿を見て、良かったね! 友達がたくさん増えたね!と精一杯共感しながらも、日常の現実に頭を抱えるしかない自分がいる。

2016年10月7日金曜日

性善説と性悪説

人の捉え方には性善説と性悪説ありますが、自分は徹底した性善説主義者と思います。
物事、何でも性善説に基づいて仕組みが作られたら良くなるのに、としばしば考えます。
ボランティア・市民活動の行動力・善意は本当に素晴らしく、そこを支える仕組みも生まれたりします。
しかし、そこに資源を投入しようとすると、制度を悪用するごく僅かの側に焦点を当てて、リスク管理とか事故防止とかもっともらしい言葉と共に、使いにくいものにしてしまう。
特に一刻を争う場面にも関わらず、性悪説からものを考える人がいっぱい。
その行為により、助けられるものがどれだけ助けられなくなることか。
そのペンディングや時間稼ぎが、どれだけ末端に深刻な影響を及ぼしているか想像が及ばないようです。
その判断によって、自分や自分の家族は痛くもかゆくもないから、そうするのだと思います。
「自分事」と思わない人が、関係する人の命運をいたずらに左右できる位置にいることは、とても不幸なことです。
自分や自分の大切な人が依頼人だったら、と考えることはできないのか。
その助けを必要とする人に寄り添った柔軟な判断を下せないのか。
…と性悪説が好きな人たちを見て思います。
自己保身や、面倒だから、という本心が丸見えだったりします。
悪用する奴がいるから悪いという。
じゃあ、その制度なり支援策がなぜ生まれたのか、一度でも本気で考えたことがあるのでしょうか。
自分が苦しんで生み出したものでも同じセリフを口にできるのでしょうか。
ルールを作る側になれば分かりますが、誰もが納得できる完璧なものを作ることは不可能です。
仮に、どこかに落ち着きどころを設定して作るしかない。
突き詰めれば、あらゆるものがケースバイケースというのが現実なのだと。
ルールとは、実態に対して「仮」の設定ということが大前提としてあると考えます。
世を良くすることが目的なのか?
ルールの文字面を死守すること自体が目的なのか?

2016年10月2日日曜日

自分の顔に責任を・・・怒りのコントロール

怒りの沸点が低いのが最大の欠点なのに、治らない自分。

カチーンと、許せないスイッチが入ってしまう時に自動的に発動されてしまう。

ただ、そのポイントが世間一般とズレていることが、最近わかってきた。
人が怒ったり嫌うものにはあまりそれを感じない一方で、何でそのことで私がそこまで怒るのかよくわからん、そういうことらしい。

常識的行動がとれない人、能力が及ばない人、失礼な人、怠惰な人、鈍感な人、スローな人…、様々人を怒らせるパターンはあるが、それら自体が“許せん”となることはほとんどない。そう見えるけれど、何かそこにはきっと文脈があって、見えているのは一面かも、と思いとどまるから。

では何に引っかかるのか。

自己陶酔系、自信過剰系、他人を眼中に入れない自分本位のいわゆる“自分様”の上から目線。
それが上記の現象の裏に存在することを感じた途端、スイッチが入ってしまう。
「何様だ?」と。

そういう厚顔無恥な人間は放っておけばよい、恥ずかしい思いをするのは自分だから、と達観したアドバイスなどされるが、それが出来るなら今の自分の悩みはない。

思い出しても腹が立つようなことが連続して、胸のつかえが最近ひどい。それが顔に出ている。

今日の授業参観で「あなたの旦那、険しい表情しているけれどどうしたの」とママ友に囁かれたと妻。

あれこれ考えていたんだろうと思うが、休日にそんな表情しているなんて、かなり問題。

「男は40歳を 過ぎたら、自分の顔に責任を持て」とリンカーンが言ったとか言わないとか。
その顔が今の自分の中身なんだよな。これはマズいぞ。

2016年8月27日土曜日

どうにもならない

思うようにならないことに悩むことは愚かなこと。

それを明らかにする、ものの道理をわきまえる、つまり「諦める」ことが、あるべき心の持ちよう。

もともと現実主義者だから、このことがとても腑に落ちて、仏教を学んで十数年。

でも、どうしても心のもって行き場がないことが一つだけある。
何を自分は望んでいるのかも答えられない。
ただただ自分の思うようにはなり得ないことだけは明確なのに、「諦める」ことができずにいつまでもいる。
胸の苦しさだけが支配し続けている。
何年も続くのか。諦観に達する日は来ないのか。

朗報を聞いて、祝福するべき自分なのに、心は折れて、大きな悲しみだけに覆われている。

日常に起こるどんなつらいこと悲しいこととも何か違う、もって行き場のないこの気持ちをどう処理してよいのかわからない。
目の前にやらねばならない大仕事があるのに完全に心はここにあらず。

2016年5月31日火曜日

鏡を見る習慣

もう一つ。
避けてきた鏡で自分を見ること。  

鏡を見る習慣で、心の中の有り様を知ることになるとのこと。

これはやらねば。

片付け・掃除を習慣化できるか

災害対応で家も含めて、時間が完全になくなってしまったことで、部屋は足の踏み場もなくなってきた。

読書は、Facebookを書き始めて、かれこれ一年近く本格的なものから遠ざかったまま。

ひさびさの本「考える前に動く習慣」で、朝の10分早起きと少しの片付け掃除時間を作る習慣という部分、とても大事だと実感。
現実的でもあるので、明日から挑戦してみる価値はありそうです。

2016年5月6日金曜日

葛藤

葛藤。

シルバーウィークは台風18号支援、ゴールデンウィークは熊本地震支援…。
災害多発国は休まることを知りません。

この連休も家族で過ごすことが消えました。

運動会も、授業参観も、習い事の発表会も、御免なさい、の繰り返しです。
子供の成長は待ってくれない。一年一年大きくなり、変わっていきます。

一瞬、一瞬を大事にしたい大切な家族との時間…、というのが口先だけになっています。

被災地に入り、また現場の支援者と一分一秒の世界でやりとりをしていると、大型連休モードに、心を寄せようがない。


しかし、そんな支援モードでいる限り、家の中の話題、安らかな空気感から、自分一人どんどん乖離していくのがわかります。
ゴールデンウィークの都内の街の風景の中に溶け込めていない浮いた存在であるのを感じます。
今更言うなって話かもしれないけれど、何か歪んだ不自然さを自分に感じます。

家族から見れば、よくわからないところで何かバタバタやっていて、家族は二の次という判断を下している父親でしかありません。
後になったらわかる…。背中を見て育つ…。
本当にそうでしょうか?
「いま目の前の刹那を大事に生きる」と誓ってきたこととの大いなる矛盾。
人があれこれ助言してくれても、決断するのは自分以外いません。
正答はありません。
でも、その行為の選択こそが、自分が選んでいる生き方。
「誰のため、何のため」は、人生全体にかかる筈です。

個人的葛藤です。

2016年2月18日木曜日

「莫妄想」、「刹那主義」でいく。

40度近い熱で朦朧と長いこと横になっていると、自分の言動の後悔の類いがこれでもかと頭の中を渦巻き、気持ち的に追い打ちをかけます。
寝込むといつもそう。
あの時の自分の発言は誰かを傷つけていないか、失礼はなかったか、出勤した時の振る舞うべき態度は…という具合に。
損な性分です。
病に伏せる最中には無駄でしかない思考ですが、身体が弱ると心も弱り、負の思考スパイラルから抜け出せなくなるんです。
*******
目の前のことより、あれこれと頭の中でこねくり回すものが「妄想」。
思えば、今日あった出来事を頭で反芻したり、後悔したり、明日どうするかで頭がいっぱいになったりして、家族からの語りかけに上の空になっていることが頻繁にあります。
「莫妄想(まくもうぞう)」、「妄想するなかれ」です。
目の前をおろそかにするしわ寄せの積み重なりは、最後は自分にツケが回ってきますので。
もう一つ。
「人の一生とは、一刹那だけです」とは釈尊の言葉。
「刹那」という時間の最小単位をさす仏教語は、人生にあるのは刹那だけであり、人生はその刹那の積み重ねで構成される、という考え方の根本です。
刹那主義というと、自分の快楽を優先して、今さえ良ければ後は知らないという無責任な生き方として、一般には決して良い使われ方をしません。
しかし本来的には、今、その瞬間を大切にして歩んでいくことが「刹那主義」ということになります。
考えてみれば、目の前のこと、目の前の人以外、「私」が対峙出来るものはありません。色々先のことを想像したり、勝手に予測したりすることはできても、実際には目の前、刹那としか対峙しえません。 刹那をどうするかだけが、三次元の世界における私の全てです。
そうなると、一瞬一瞬の刹那、目の前のことをどれだけ大事にできるかどうかが、突き詰めれば人生の全てとも言えるように思います。
「莫妄想」、「刹那主義」でいく。
そのためにも、口にする言葉には心を込めて安らぎに満ちたものにすることを心がけ、笑顔で接することが大事になるのだろうなあ、と思ったりした長い病床でした。
******
明日からようやく職場復帰の見込みです。
四日間、委員会にセミナー、大事なアポイントメントと、色々と穴をあけました。
お見舞いの言葉をくださった皆様、不在時フォローをしてくださった皆様、ありがとうございました。
エンジンがかかるまで時間を要しますが、そこはどうか大目に見てやって下さい。

2016年2月11日木曜日

「自由と孤独は隣り合わせ」



連日分刻みで慌ただしく仕事した後、今週は毎夜お店ミーティング。夜も大事なので。
間に入ったお休みの今日も、3月末の4自治会合同防災訓練準備としての避難所HUGで半日埋りました。
明日明後日と災害連携全国フォーラム。土曜日も終日ですが、振替の休日なるものは二年前から存在せず。
でも、連日の飲みは身体への負担が身に沁みます。今日は休肝日にせねば。
*******
独身より既婚、既婚より子持ち。
束縛は増え、その自由度は減っていきます。
家庭を持つと、独身者は想像し得ない地域活動やPTA、世帯主としての親戚付合いなど、周りに対処すべき事項が増大していきます。
真面目に家庭人をやるほど、仕事とそれらでほとんどの時間が奪われ、現に昔からライフワークとしてきている数々の趣味に費やせる時間は、独身時代の10分の1以下になりました。
そして、年齢とともに本業での縛りも増え続ける一方。
ほとんど自由がなくなるわけです。
その代わり、そこに孤独はありません。
独りの時間は喉から手がでるほど欲しいけれど、周りが自分を必要としている環境に感謝こそすれ、孤独感・無用感はありません。
「自由と孤独は隣り合わせ」ということなのでしょうね。
最近、束縛の中でやることをやってきた人と、そうでない人との間に、視野の広さや経験に基づく判断に雲泥の差ができているのを感じます(30代以上の話)。
損得を超越し、自由意志では決して選択し得ない、時には理不尽だったり、能力以上のことを求められたりすることに立ち向かわざるを得ない日常。
それを乗り越えることでしか培われない面倒な諸々に向き合ってきたかどうかが、この歴然とした差ではないかと思います。
一専門性に長けているとか物知りだとか事務能力が高いとかは正直どうでもよくて、人としての総合力、つまり予期せぬ問題への解決・対応力や広い視野に基づく判断力などで結局評価されるのが大人の世界です。
この年になって様々な場面で痛切に感じます。
物事によっては、一定の年齢を過ぎてからはもはや経験不能、中に入ったり信頼を得ることができなくなります。
何事にも遅過ぎることはないというのは嘘だと思います。
人によって時期の前後は多少あれど、大事なことを「やるべき時期」は必ずあると思っています。
自分はまだ若いなんて思うのは幻想。気づいたら壮年から中年になっていましたから、熟年・老年もあっと言う間にきます。間違いありません。
高齢者の姿は、すぐ先の自分の姿だと思った方がいい。
機を逃さないようにするには「如何に自然体で生きるか」。
そこにかかっている気がします。
関係性を自分中心でしか構築して来なかった人が増大した結果、至る所での社会的孤立であったり、社会に対してクレーマー的な立ち位置しか持てない(他人に共感する力が極端に低い)大人だらけの現状に帰結したのではないかと。
結婚して家族を養う選択をしていなかったら、自分も今頃どれだけ歪んだ40代になっていたか…。
想像できるだけに恐ろしくもあります。
*******
って、今の置かれる状況を正当化して自らに言い聞かせているだけに思えてきました。
ただただ「とはいえ、頼むから自分の時間が欲しいよ~!」というのが本音かも・・・(°°;)。

2016年2月1日月曜日

15回目の結婚記念日

20世紀=独身、21世紀=既婚。
これをねらって、2001年の1月1日、元旦で静まり返る市役所の通用口から手続きに向かい、入籍しました。
そして2月2日のレストランでの小さな挙式から15回目の結婚記念日のために、今日は休暇をとりました(一日ズレですが)。
伊勢丹で宝飾品などの普段知らない世界に興味津々。昼のフレンチは隠れ家人気店だけに美味しかった。デザートはフルーツふんだんミルクレープが最高のお店で。
***********************
もともと20代からプライベートが仕事より比重が大きかった人間ですが、いわば「運命共同体」である家族ができた時に、今後人生で何を大切にしなければならないかがハッキリしました。
それから心がけてきたのは、早く家に帰ることです。
家族が「家」という空間に幸福と安心を感じる、そんな場にするために、出来る限りのことをする。
業務時間中は出来る限りの効率で働きますが、早く帰宅し、語らい、ふれあう毎日を繰り返すことが、何より互いの健全な魂を育くむと信じています。
「忘己利他」「自未得度先度他」「衆生無辺誓願度」「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」・・・。
他人を利することを第一に考えるという仏道の教えは幾らでも出てきます。
では、自分の生活に置き換えて具体的に実践するには一体何ができるか。
一人の人間がすべての衆生を救うなんてことは出来るはずはしないし、それは思い上がりか勘違いでしかないでしょう。
となると、まず自分の一番近くの有縁の人、私で言えば家族のためにやれることをやるということが、最も理にかなうのではないか。
もっとも家族の話題は、人それぞれ事情がありますから普遍化できないことは承知しています。
ただ、毎日遅くまで仕事ですよ…、休日出勤が続きまして…、休みは家で宿題(仕事)ですわ…、趣味といったらまあ仕事ですかね…・・・
それを誇らしげに言う人とは、多分相容れる部分はありません。
言いたいのは、家族のような「最も親しい『縁』を持つ人」との関係を軽視して、まともに人生を全うすることはできないということです。
仕事一辺倒の人、あるいは自分より大切な誰かがいないのかな、と感じる人を、どうしても信用できない理由はそこにあります。
(外的要因からの文脈ではなく)「おひとり様」などと自分に「様」までつけて、自分中心に生きることを正当化して使っているのを耳にすると、ただの「自分様」だろうとさえ思います。
歴史的にも世界的にも、家族を大切にしない時代・民族は稀と思っています。
それは病んだ世界です。
現代の日本、もっと言えば高度成長期以降の日本は、その代表的な「家族崩壊」系の社会といって過言ではないと思います。私たちの親やその上の世代からです。
家族等より明らかに縁遠い会社の人間関係等を優先させ、他人にも強要してきました。
その価値観を引きずっている人がどれだけ多いか、長年社会にいればわかりますし、現代日本の深刻な社会課題の根源はここにあると感じています。
今、10代・20代の若い人たちがその価値観へのアンチテーゼともいえる方向で、システム化・仕組化されすぎた社会の殻を割ろうとする姿に苦言する大人が多いですが、私はむしろエールを送りたい。それは長い目で見ると正常な行動と思えて、嬉しくなるのです。
社会的ステータスがフリーターといわれようが何だろうが、家族(有縁の人)を大事にするという基本姿勢を持つ人の方が人間の自然な姿であると思っています。
かなり突っ込んで書いたので、不愉快な思いをして読まれた方もいらっしゃることと思います。
すみません。でも、これは自分への戒めでもあるんです。
冒頭の「早く帰る」の例外として、一刻を争う災害対応は、家族の理解を得て、時間の縛りから一旦解放する位置づけをしてきました。
しかし毎年災害は絶えず、一年のうち、結構な時間を災害対応に費やすのが現実。
そして最近は結局それに引きずられるように、それ以外でも早い帰宅ができなくなりつつある。
そう考えると、心がけると言ったことが実行されていないことへの自己嫌悪と同時に、出来ていないからこそ、このことは意識し続けたい、と思うのです。
・・・って、一日休暇取るのにどれだけ理屈をこねてるんだって感じになっていますかね(__;)

2016年1月27日水曜日

「伝統」の言葉を考え直す

『それホンモノ? 「良き伝統」の正体』という記事タイトルに共感。
私は「伝統」という言葉が好きになれません。
自身の主張や嗜好を押し通すべく、「伝統」という言葉を武器に、相手に有無を言わせないために使われる言葉であることが多いからです。
祭りなどでも、すぐに「伝統」を持ち出しますが、検証すればたかだか100年とか、ひどい場合は戦後に始まったことを伝統とか言って、後進を屈伏させようとする人がいます。
昔の日本人は…などと口にする類いは、たいてい疑って間違いないと思います。
せいぜい自分か両親世代の情報で決めつけているから。
その時代がとても誉められたらものではなかったり、時代とともに変えるべきことの方がよほど大多数だと思うのです。
温故知新は大切ですし、革新のヒントは必ず過去にあると思っていますが、温故の部分はしっかり自分の手で集めた情報で検証してから、今の在り方を考えるべきと思います。
まがい物の伝統は、冠婚葬祭など儀式的なものにも巣くっているから要注意です。
男性的であることを日本でははるか昔から強いられてきた、とする話をよく耳にしますが、私の経験として、戦前の成瀬巳喜男監督の日本映画に登場する男性主人公の女性的仕草や優しさ、言葉遣いの柔らかさに衝撃を受けたことがあります。男性性の象徴、黒澤明作品でさえ、戦前の男性主人公のキャラクターに驚かされました。
また、そういう時代の小説などでも、決して男性的男性が一般的価値として共有されていたとは思えない描写に出会います。
私たちの信じ込まされてきた昔からの日本男児像は、戦時中に作られて、それをずっと引きずっているだけで、決して伝統でも、伝統ある日本文化でもないのだと気づかされた経験でした。
また、地域差や少しの時代の違いでもきっと価値観の変容は様々だと思うのです。
◆それホンモノ? 「良き伝統」の正体(毎日新聞)
http://mainichi.jp/articles/20160125/dde/012/040/002000c
ポイ捨てしない、列は守る、綺麗好きで礼儀正しい日本人…。
そう言って憚らない人は少なくないと思いますが、日本人という大きな括りで語っても、意味をなさないという証拠だと思います。

2016年1月19日火曜日

「謙虚」に生きるために

一つの分野に継続して関わる縁を得て、自分もそれなりに求められる場面が増えてきた今日、自戒を込めて思ったこと。
一朝一夕では得られない「知識」や「経験」、これがある程度蓄積されると人間の厚み(注:深さではない)が出てきます。
それを次には「智恵」として目の前の日常に落とし込んで実践することができれば「一人前」。
でも、その先から2つに大きく方向が分かれるように感じます。
一つは『自分』(及び自分の思想・信念)を前面に売り込んでいく行き方、もうひとつは『謙虚』な行き方。
「知識」「経験」を「智恵」に昇華して表現できるようになると、多くの場合世間で認知され、求められるようになります。
人間の強烈な欲求である承認欲求、求められることを体験すると、これは確固たる自己肯定感につながります。
世間にとって「役立つ」限り無視はされませんし、立ち位置が確立して、何より「忙しく」なって時間も充実したかのようになります。
我が考え方・思想に自信がつきます。上昇気流に乗った気になります。
そこから人の真価は問われるのかな、というのが私見です。
自信は、天狗になるという落とし穴に一直線でつながっていきます。
大抵、表面上は自己卑下したり謙遜したりしますが、もてはやす輩に囲まれて、実は内心の天狗度は上がる一方…。
節々に表出する「上から目線」と「選民意識」…。
真に『謙虚』な人は、
①人の話しに耳を傾けられる
 対人術として聞くフリが上手でも、本当に受け止めていたかどうかは後の言動でわかってしまいます。
②他人に配慮・心遣いができる
 ゙親しくない人゛を含めた他人であることが重要です。
という点において、決定的な違いがあるように思います。
自分との関係性の濃さや相手の社会的ステイタスに左右されず、相手が誰であれ根本的な向き合い方がぶれない人とでも言いましょうか。
私は『謙虚』のベクトルで年を重ねている人に敬慕の念を持ちます。人間の「深さ」を感じます。純粋に素晴らしいなあと。そして、そうなりたいと。
今回の出張でそんな局長さんにお会いできたことは嬉しいことでした。
一方、処世術に優れ、いくら有能で行動力や発言力で社会的に重宝されている人でも、結局は「自分様」、自己陶酔系の方は、まあ、遠くからご活躍を拝見しますっていう感じです。お近づきは遠慮したいと殊更思うようになっています。
これらのことを心に留め置いて、我が振る舞いを自覚し、人様に耳を傾けて、忠告やダメだしをされたら素直に受け止め、慢心に陥らないことを意識する。
そう心掛けたいと思いました。

2016年1月9日土曜日

「プラスのオーラを出せる人になりたい」

新年は、あらためて、自分はこれからどうしたいかを整理する良い機会です。
「プラスのオーラを出せる人になりたい」。
齢を重ねるにつれ、中身が外に出るというのは真実と思います。
どうしたらプラスのオーラが出るのか、また逆にマイナスのオーラはどこからくるのか。
プラスのオーラのポイントは
『喜び上手であること』
『感動できること』
かな、といま考えています。
同じ現象を喜ぶ人と喜べない(何も感じない)人がいます。
喜び上手・感動できる人に「幸せ」が集中していくような気がします。
喜び上手は幸福を感じる幅が広がっていくので、益々幸福が増える。
喜び上手の人は肯定的な言葉を発して笑顔なので、それがプラスのオーラとなって人に伝播して周辺に幸せ感を充満させます。
また、感動は人生最大の喜びと考えます。
時折、この感動のために生を受けたのかな、と感じることも。
感動は感謝に繋がり、豊かな人生となります。
感動は何も特別なイベントに付随するものではありません。
そのためには、日常生活の中で、感動できる感性を磨くことでしょうか…。
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プラスのオーラを持つ方から幸せをいただけた今日。
時がわだかまりを氷解し、心から楽しいと思えるひとときを共有できた今日。
そして、共感し合えることに深く感謝した今日。
感動できたことを少し客観視して、この「有り難い」経験とこの気持ちを大事にしたい。
感動と感謝は密接な関係にある。
人に感謝すべきであるという考え方は誤りで、感動するから感謝が自然に生まれるのだと。
初詣は祈りの時だが、「請求書の祈り」でなく、「領収書の祈り」でありたい。
「叶えて下さい」ではなく、「今を有り難うございます」ということ。
かたや、文句や問題提起(私のFBに多いか…)、糾弾、自己嫌悪・自己卑下、こういう言葉を発し続ければ、間違いなくマイナスのオーラが撒き散らされる。
真面目すぎること、これもマイナスのオーラだと気づいた。
真面目に振る舞うことを優先させ、短絡的に正義感を振りかざしてきた若い自分は、周りにマイナスオーラを出し続けてきたのだろうと振り返る。
周りから浮いた感に悩み、人間関係に苦しんだ。何故自分はダメなのかと自己嫌悪して負のスパイラルに入り、それらのマイナスのオーラがそうさせていたと説明がつく。
しかし、子育てと並行して仏教が示す人生のあり方と出会えて、かなり軌道修正されたかもしれない。
だが、まだ精進不足でマイナス要素の多い人間だと思う。
だからもう一度忘れぬよう決意を言い聞かせる。
「プラスのオーラを出せる人になる」。

2016年1月7日木曜日

自分様にならない蘊蓄術



私は物知りの人の話を聞くのはどちらかといえば好きなほう。
蘊蓄家がいる。
何故か、とても好感の持てる人と、二度と聞きたくない人と、真っ二つに別れる。
自分はその後者になるのが怖くて、語ることを避けてきた。
恐らくFacebookに書いているような話(映画、音楽、旅、育児、仏教etc.)を飲み会等で私から長々と聞いたことがある人はほとんどいないと思う。
同じ話題でも、もっと聞いてみたいと思う人がいる一方で、不愉快極まりない印象の人がいる。
どうも、話す内容や知識量、また必ずしも“話し方"に良し悪しがあるのではないようである。
話し手の年齢が年上か年下かも関係ない。
違いは何なのだろう、とずっと不思議に思っていた。
問題の所在は、話し手の「我(が)」の位置が全てであることに、今、突然気づいた。
要は「自分様」になっていないかどうかなのだ。
優越感のために、我が快感だけのために、悦に入って話している場合、聞かされる方は最悪である。
かたや、話題の対象を心から愛していて、その感動を伝えたい、という場合は、素敵である。惹き込まれる。無我の境地で語る姿である。
伝え方は、熱くても、しっとりでも、ユーモラスでも、訥々としていても、それぞれの個性があっていい。
そのプラスのオーラがこちらにも伝播して、聞く方も幸せになってくる。
いやあ、長年の謎が解けて嬉しい(^^ )

2016年1月4日月曜日

「変えること」をいやがるのは大人

昨日は汗びっしょりになって半袖で公園で遊べたお正月。
今日は気温17度の天気予報。
しかし、朝の通勤は皆様真冬真っ最中の厚着で、コート無しの私は完全に浮いている。
実際、4月のような陽気が続いていて、これだけ天気予報の精度が上がった時代でも、人々は暦上の季節感(いわゆる「慣習」)を重視し、臨機応変に「変える」ことを拒んでいるように見える。
疑問を持つことをよしとせず、有無を言わせぬ慣習が嫌。
臨機応変より惰性や前例踏襲を選択することが嫌。
正月早々、そんなことを気にしてばかりだと疎まれるわな。