2016年10月7日金曜日

性善説と性悪説

人の捉え方には性善説と性悪説ありますが、自分は徹底した性善説主義者と思います。
物事、何でも性善説に基づいて仕組みが作られたら良くなるのに、としばしば考えます。
ボランティア・市民活動の行動力・善意は本当に素晴らしく、そこを支える仕組みも生まれたりします。
しかし、そこに資源を投入しようとすると、制度を悪用するごく僅かの側に焦点を当てて、リスク管理とか事故防止とかもっともらしい言葉と共に、使いにくいものにしてしまう。
特に一刻を争う場面にも関わらず、性悪説からものを考える人がいっぱい。
その行為により、助けられるものがどれだけ助けられなくなることか。
そのペンディングや時間稼ぎが、どれだけ末端に深刻な影響を及ぼしているか想像が及ばないようです。
その判断によって、自分や自分の家族は痛くもかゆくもないから、そうするのだと思います。
「自分事」と思わない人が、関係する人の命運をいたずらに左右できる位置にいることは、とても不幸なことです。
自分や自分の大切な人が依頼人だったら、と考えることはできないのか。
その助けを必要とする人に寄り添った柔軟な判断を下せないのか。
…と性悪説が好きな人たちを見て思います。
自己保身や、面倒だから、という本心が丸見えだったりします。
悪用する奴がいるから悪いという。
じゃあ、その制度なり支援策がなぜ生まれたのか、一度でも本気で考えたことがあるのでしょうか。
自分が苦しんで生み出したものでも同じセリフを口にできるのでしょうか。
ルールを作る側になれば分かりますが、誰もが納得できる完璧なものを作ることは不可能です。
仮に、どこかに落ち着きどころを設定して作るしかない。
突き詰めれば、あらゆるものがケースバイケースというのが現実なのだと。
ルールとは、実態に対して「仮」の設定ということが大前提としてあると考えます。
世を良くすることが目的なのか?
ルールの文字面を死守すること自体が目的なのか?