2017年1月21日土曜日

頼まれごとの人生を送ること、すなわち人に喜ばれる存在になること

『人間の生きる目的とは、「頼まれごと」の人生を送ること。すなわち「人に喜ばれる存在」になること。』
(「100%幸せな1%の人々」/小林正観/中経文庫)
これを読んだのが数年前。

「努力」という行為の美化に、常日頃から疑いをもっていた。
努力の方向を誤ると、それは結果もプロセスもマイナス(負)の遺産として刻み込まれるのではないか、と。

24時間営業消費社会も過労死も原子力推進も、裏には弛まぬ「努力」がある。
努力以上に大事なのは、正しい方向をつかむこと、その眼を養うことなのではないか。
自分を取り巻く時間・空間・環境、そしてその文脈における「本来の流れ」に逆らってもがくことは、負の結果を残すのではないか。

自然体で流れに身を任せる、できれば加えて流れの方向に勢いをつけるように加速させることが、最終的に善を呼び、快な状態を作り、満足いく結果をもたらすのではないか、と経験則上おぼろげに思っていた時に出会ったこの言葉。
喜ばれるのならば引き受けたい。
自分の如き人間を必要とする人や場面があるのであれば、可能な限り応えてみたい。

そうしてきた結果、頼まれごとが公私ともに増えてきた。
趣味時間や一人贅沢な自由時間が捻出できない過密状態。

でも、多分、これも今だけのこと。
そして応えられる自分も、もしかしたら今だけかもしれない。

「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり」(蓮如上人/御文章)。

そう思うと、躊躇無く、制御することなく、自然体でお受けしよう、そう判断するようになった。
流れに身を任せることを選択し続けた結果、いま流れに乗れている実感がある。
それは幸せなこと。
適度に気が張り続けられて、以前より病弱でなくなった。
以前より無用感や自己否定感に苛まれなくなった。
以前より喋るようになった。笑えるようになった。