2015年5月23日土曜日

感応動交するとき

新潟帰りの新幹線のフリーペーパーで山田五郎氏のアートエッセイを読み、福島県裏磐梯の諸橋近代美術館に東日本大震災以降通って、「改めて芸術は無力で役立たずの戯れ事ではないと確信した」というくだりに大きく共感しました。
人はパンのみに生きるにあらず。苦しい時にこそ美が求められることもあるはず、と。

そこで思い出したのが、自分が偶然にも震災直前の2010年の夏に家族で諸橋近代美術館に行ったことです。
妻と幼い娘は別行動し、まだ小学校二年生の息子と訪れました。
まずは素晴らしい美術館の建物と敷地に感激しましたが、息子が本気でサルバドール・ダリのコレクションに興味を持ってくれ(行く前に家でダリについて予習を一緒にしたのも良かったと思いますが)、夢中になって一つ一つの作品について真剣に会話をしました。

あのときの通じ合った感覚、まさか小学校二年生の息子と芸術の感激や気づきを交わしあえるとは思いもせず、これまで何十と訪れた国内外の美術館訪問の思い出の中でも忘れられないひとときとなったのです。

そこで自分の頭に去来した言葉が「感応動交」というもの。

道元禅師正法眼蔵に登場する言葉で、仏教用語なので、基本、仏や仏弟子間で使うものですが、息子と自分の間にぴったりくる表現がまさに「感応動交」でした。
ただ「共感」という表現よりもっと深く、そうざらにはない貴重な瞬間。
この瞬間は人生最大の喜びの瞬間の一つではないかと思う。
究極、この瞬間、感応動交のための人生なのではないかとさえ思うのです。
そうして、息子の存在に感謝の気持ちでいっぱいとなるのです。

この感激を大事にできる感性を失わないこと、そして感激できる心の扉を閉じないよう心がけられたら、人生多少の事があっても絶望だけはしないのではないかと…。

2015年5月21日木曜日

感動のアンテナを磨き続ける

原点に戻って、感動できることが人生最大の喜びであることを今改めて確認したいと思います。
感動は感謝に繋がり、豊かな人生となることと思います。

そのためには、感動できる感性を磨くこと。
感動にマイナスの感情は欠片もありません。その対極にあるものと言って過言ではありません。

仕事で追い詰められ続けていても、外の方々から色々なところで、適時手を差し伸べていただけた今日。

これを感激、感動と言わずに何と言いましょう。

うまくいかないかもしれないと思っていた仕事仲間が、環境の変化に伴って、素晴らしい活躍をして、自分を本当に助けてくれている。

この一つ一つ、大事に感動したい。

そして、そこから感謝が自然に生まれます。
人生、感謝すべき、というのは間違いで、感動するから感謝が自然に生まれるのです。

一度の過ちをいつまでも許さない人間に固執してはいけないのです。
どれだけそこに力を注いで的外れなことをし続けていたのかと思います。
見せかけの優しさや共感した表現に騙され、味方と思い続けてきてもそれが検討違いのこともある、という経験が自分に必要だったのでしょう。

周りを見れば、ずっと沢山の人々が自分を様々な形で支えてくれていることに気づけます。

目の前の感動こそが縁があることと気づくこと。

原点回帰です。

2015年5月18日月曜日

間違った結婚はあり得ない

『出会った人が運命の人』(山川紘矢、山川亜希子)のタイトル への回答とも言える今回のテーマです。
同書から、スピリチュアルの視点からの考え方をいただき、続いて仏法にも照らし合わせてみました。

結婚に至るには、その相手と只ならぬ縁の深さがあるから、という考え方があります。
裏返せば縁がなければ、結婚には絶対至らない。悪い結婚も、間違えた結婚も、結婚相手を間違えたということも無いのです。

結婚に限らず、この世に偶然はあり得ないという考え方です。

自分の魂に一番良い人と結婚すると考えるのがスピリチュアルの運命論です。
だから、課題のない結婚生活はあり得ないし、問題は相手にあるのではなく、自分の中にある問題が出てきたと考える。

そして、結婚に後悔したとしたら、相手も後悔している。相手は自分の鏡だから。

「この結婚は間違いだった」と自分を棚に上げて早とちりしないことです。

もう一つ、こちらは小林正観さんから拝借して。
結婚を希望する人が結婚できないあるいは幸せな結婚ができないわけ。
それは「結婚」という事柄だけ考えて、目の前のひと、もの、こと、を大事にしていないから。

これは仏法における三世の業法の理にも通じることで、過去も未来も考える必要はない。過去は既に過ぎ、いじることは不可能。明日という日は永遠に来ない。きた時には今日になっているから。

自分たちができることは今の瞬間だけと心得ることです。
(結婚をテーマにする必要もない、万物の真理でしょう)

2015年5月16日土曜日

古鏡としての経典

経文を学び始めて思えば10年という時間が経過し、日常生活から経文が離れ、繰り返すことを怠ってきたために、40近く暗誦できた経文が、もはや10程度(しかも短いもの中心)になってしまい、この40代は明らかに試練を呼び込んで、仏教に照らし合わせて解決することもできない状態が続いてきました。ひとえに、仏法離れがなせる業と納得しています。

経典・経文を「護呪」として、いわば祈りのためと捉えることが多く、陀羅尼などはそう捉えるしかない部分はあるが、いくつかの経文については自分は「古鏡(こきょう)」として捉えることを意識したい。

経文の中にある内容と自分の生き方を照らし合わせて、正しく生きるための指針として読むあり方です。修証義などがこのあり方に相応しい経文の一つです。
暗誦が目的ではありませんので、一言一句を味わい、思惟し、日常の落とすことを心がけたい。

2015年5月12日火曜日

自我を捨て、「負け犬」にならない

勝ち負けという事実は人間社会には必ず存在し、それ自体を否定するのはナンセンスです。
受け入れなければならないが、これをどこまで引きずらないでいけるかということです。
自分は若い時から常にそうなってしまってきましたが、「負け犬」になってはいけません。

ここでいう負け犬とは、負けたことを悔やみ、「なぜ自分が負けなければいけないのか」と怒り、自分の無能さを呪い、見るも無残に落ち込むこと。

それはとことん暗い。

負けて落ち込むのは、俺が負けるとはそんなはずはない…と思っているから。
裏にあるのは自分の過大評価と自我の塊。

そもそも自分の実力などしれている。我々一人一人など世界から見ればゴミみたいなもの。はっきり言ってどうでもいい存在であることを自覚する。
開き直るという言葉はあまりプラスに使われないが、負け犬にならないのに必要なのは、開き直りです。

スマナサーラ師の「怒りのおさめ方」からヒントを得て。

2015年5月7日木曜日

人を遠ざける3つの要素

自分がいっぱしに仕事ができて、技術を持って、ということになって出てくる3つの感情がマイナスを呼びます。
仏教でも十重禁戒など、様々な禁戒があり、それらと重なるものもありますが、これは小林正観さんが整理したもの。

「自己顕示欲」「復讐心」「嫉妬」の3つです。

嫉妬と復讐心は、例えば、他人がちやほやされるのを見て快く思わない、気に入らないことをした相手への仕返しを妄想することなど。
自分に置き換えて考えると、嫉妬と復讐心は負け惜しみなど無しであまりピンと来ないです。自分はほとんどない方なのかもしれません。特に嫉妬はあらゆるところで言われますが、自分はどの事例も正直重なりません。

しかし。
自己顕示欲はそうは行きません。
自己顕示欲は外から見て見苦しいものです。
その特筆すべき事実以上に、自分を認めて欲しいという欲求を表現してしまう。顕示すればするほど人物としての評価は落としていくことになるのだと思います。事実が例え優れていても。

自分もこれまでどれだけこのことで醜態を演じてきたか。
真正面からその行動を批判されることがないが故に、気づかないで自己PRなどと正当化してこれを前に出してしまってきたこと数知れず。

「評価」は自分で表現した時点でダメなのだと思います。それは他人がすることであり、場合によっては自分の耳に届かないで終わるものもたくさんあるのでしょうが、そういうものとして諦めることです。

このことは肝に銘じて、今後の人生をやっていきたいと思います。

2015年5月1日金曜日

宗教の本質は感謝

『商売繁盛を願うこと、良縁祈願すること、家内安全を神仏に期待することは、有り難い日常をくださっている神仏に対して「宣戦布告」をしているようなもの。』という小林正観さんの言葉は強烈です。
ひろさちやさんは、これを請求書の祈りといい、祈りは領収書の祈りでなければいけないと言いました。

ここに宗教の本質があると思います。

多くの日常に根付いている宗教は感謝の祈りを捧げます。
しかし、この国では、誰も彼もが、寺社において、自分に都合の良い請求書の祈りしかしませんし、それを宗教と思い込んでいる状態です。
それが日本教だと知ったように言う学者があとをたちませんが、これは本質的に宗教でも何でもない、迷信レベルです。本気で信じていない点で迷信よりも低い次元の行動と言っても過言ではないでしょう。

日本にも本物の宗教者はいつの時代もいました。
その教えを大事にしたい。

一体となった状態

幸せとは何か、という人生最初で最後で最大の命題についてですが、ある事に対して余念の入る余地なく、そのもの(事)と一体になっている状態が、最も平穏で幸せな瞬間なのではないか、とふと思いました。
人が良し悪しを別にしてトランス状態を求める背景にはこの事実があるからでしょう。

なるほど、例えば音楽に心底共鳴している最中の自分は、その中で一体になっています。そこに雑念はありません。
スポーツもやり方次第では、そのようになる事もあるでしょう。
静かにそれを追求するのに、座禅や瞑想があります。

より複雑化したものには雑念は入りやすいですが、シンプルな世界にこそ一体感というものがあるように思います。

子育ての過程で、夢中に幸せを身体いっぱいに体現して遊ぶ我が子を見守っている時もこれに近い感覚がありました。
子育ては他に代え難い人生の喜びと感じた理由もここにあったのだと、こう整理して改めて気づきました。

共感しあうこと、共鳴することも、他人との一体感を感じることから、幸福感につながっているわけですが、こちらはどこか、そう思いたいという願望に自分を寄せている要素が強くて(恋愛の初期のような)、結局、人と人の共感は部分的だし、あまりにシンプルとは程遠い世界故に、その一体感は刹那的で、幻想的な部分を含んでいるように思います。