2016年2月18日木曜日

「莫妄想」、「刹那主義」でいく。

40度近い熱で朦朧と長いこと横になっていると、自分の言動の後悔の類いがこれでもかと頭の中を渦巻き、気持ち的に追い打ちをかけます。
寝込むといつもそう。
あの時の自分の発言は誰かを傷つけていないか、失礼はなかったか、出勤した時の振る舞うべき態度は…という具合に。
損な性分です。
病に伏せる最中には無駄でしかない思考ですが、身体が弱ると心も弱り、負の思考スパイラルから抜け出せなくなるんです。
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目の前のことより、あれこれと頭の中でこねくり回すものが「妄想」。
思えば、今日あった出来事を頭で反芻したり、後悔したり、明日どうするかで頭がいっぱいになったりして、家族からの語りかけに上の空になっていることが頻繁にあります。
「莫妄想(まくもうぞう)」、「妄想するなかれ」です。
目の前をおろそかにするしわ寄せの積み重なりは、最後は自分にツケが回ってきますので。
もう一つ。
「人の一生とは、一刹那だけです」とは釈尊の言葉。
「刹那」という時間の最小単位をさす仏教語は、人生にあるのは刹那だけであり、人生はその刹那の積み重ねで構成される、という考え方の根本です。
刹那主義というと、自分の快楽を優先して、今さえ良ければ後は知らないという無責任な生き方として、一般には決して良い使われ方をしません。
しかし本来的には、今、その瞬間を大切にして歩んでいくことが「刹那主義」ということになります。
考えてみれば、目の前のこと、目の前の人以外、「私」が対峙出来るものはありません。色々先のことを想像したり、勝手に予測したりすることはできても、実際には目の前、刹那としか対峙しえません。 刹那をどうするかだけが、三次元の世界における私の全てです。
そうなると、一瞬一瞬の刹那、目の前のことをどれだけ大事にできるかどうかが、突き詰めれば人生の全てとも言えるように思います。
「莫妄想」、「刹那主義」でいく。
そのためにも、口にする言葉には心を込めて安らぎに満ちたものにすることを心がけ、笑顔で接することが大事になるのだろうなあ、と思ったりした長い病床でした。
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明日からようやく職場復帰の見込みです。
四日間、委員会にセミナー、大事なアポイントメントと、色々と穴をあけました。
お見舞いの言葉をくださった皆様、不在時フォローをしてくださった皆様、ありがとうございました。
エンジンがかかるまで時間を要しますが、そこはどうか大目に見てやって下さい。

2016年2月11日木曜日

「自由と孤独は隣り合わせ」



連日分刻みで慌ただしく仕事した後、今週は毎夜お店ミーティング。夜も大事なので。
間に入ったお休みの今日も、3月末の4自治会合同防災訓練準備としての避難所HUGで半日埋りました。
明日明後日と災害連携全国フォーラム。土曜日も終日ですが、振替の休日なるものは二年前から存在せず。
でも、連日の飲みは身体への負担が身に沁みます。今日は休肝日にせねば。
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独身より既婚、既婚より子持ち。
束縛は増え、その自由度は減っていきます。
家庭を持つと、独身者は想像し得ない地域活動やPTA、世帯主としての親戚付合いなど、周りに対処すべき事項が増大していきます。
真面目に家庭人をやるほど、仕事とそれらでほとんどの時間が奪われ、現に昔からライフワークとしてきている数々の趣味に費やせる時間は、独身時代の10分の1以下になりました。
そして、年齢とともに本業での縛りも増え続ける一方。
ほとんど自由がなくなるわけです。
その代わり、そこに孤独はありません。
独りの時間は喉から手がでるほど欲しいけれど、周りが自分を必要としている環境に感謝こそすれ、孤独感・無用感はありません。
「自由と孤独は隣り合わせ」ということなのでしょうね。
最近、束縛の中でやることをやってきた人と、そうでない人との間に、視野の広さや経験に基づく判断に雲泥の差ができているのを感じます(30代以上の話)。
損得を超越し、自由意志では決して選択し得ない、時には理不尽だったり、能力以上のことを求められたりすることに立ち向かわざるを得ない日常。
それを乗り越えることでしか培われない面倒な諸々に向き合ってきたかどうかが、この歴然とした差ではないかと思います。
一専門性に長けているとか物知りだとか事務能力が高いとかは正直どうでもよくて、人としての総合力、つまり予期せぬ問題への解決・対応力や広い視野に基づく判断力などで結局評価されるのが大人の世界です。
この年になって様々な場面で痛切に感じます。
物事によっては、一定の年齢を過ぎてからはもはや経験不能、中に入ったり信頼を得ることができなくなります。
何事にも遅過ぎることはないというのは嘘だと思います。
人によって時期の前後は多少あれど、大事なことを「やるべき時期」は必ずあると思っています。
自分はまだ若いなんて思うのは幻想。気づいたら壮年から中年になっていましたから、熟年・老年もあっと言う間にきます。間違いありません。
高齢者の姿は、すぐ先の自分の姿だと思った方がいい。
機を逃さないようにするには「如何に自然体で生きるか」。
そこにかかっている気がします。
関係性を自分中心でしか構築して来なかった人が増大した結果、至る所での社会的孤立であったり、社会に対してクレーマー的な立ち位置しか持てない(他人に共感する力が極端に低い)大人だらけの現状に帰結したのではないかと。
結婚して家族を養う選択をしていなかったら、自分も今頃どれだけ歪んだ40代になっていたか…。
想像できるだけに恐ろしくもあります。
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って、今の置かれる状況を正当化して自らに言い聞かせているだけに思えてきました。
ただただ「とはいえ、頼むから自分の時間が欲しいよ~!」というのが本音かも・・・(°°;)。

2016年2月1日月曜日

15回目の結婚記念日

20世紀=独身、21世紀=既婚。
これをねらって、2001年の1月1日、元旦で静まり返る市役所の通用口から手続きに向かい、入籍しました。
そして2月2日のレストランでの小さな挙式から15回目の結婚記念日のために、今日は休暇をとりました(一日ズレですが)。
伊勢丹で宝飾品などの普段知らない世界に興味津々。昼のフレンチは隠れ家人気店だけに美味しかった。デザートはフルーツふんだんミルクレープが最高のお店で。
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もともと20代からプライベートが仕事より比重が大きかった人間ですが、いわば「運命共同体」である家族ができた時に、今後人生で何を大切にしなければならないかがハッキリしました。
それから心がけてきたのは、早く家に帰ることです。
家族が「家」という空間に幸福と安心を感じる、そんな場にするために、出来る限りのことをする。
業務時間中は出来る限りの効率で働きますが、早く帰宅し、語らい、ふれあう毎日を繰り返すことが、何より互いの健全な魂を育くむと信じています。
「忘己利他」「自未得度先度他」「衆生無辺誓願度」「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」・・・。
他人を利することを第一に考えるという仏道の教えは幾らでも出てきます。
では、自分の生活に置き換えて具体的に実践するには一体何ができるか。
一人の人間がすべての衆生を救うなんてことは出来るはずはしないし、それは思い上がりか勘違いでしかないでしょう。
となると、まず自分の一番近くの有縁の人、私で言えば家族のためにやれることをやるということが、最も理にかなうのではないか。
もっとも家族の話題は、人それぞれ事情がありますから普遍化できないことは承知しています。
ただ、毎日遅くまで仕事ですよ…、休日出勤が続きまして…、休みは家で宿題(仕事)ですわ…、趣味といったらまあ仕事ですかね…・・・
それを誇らしげに言う人とは、多分相容れる部分はありません。
言いたいのは、家族のような「最も親しい『縁』を持つ人」との関係を軽視して、まともに人生を全うすることはできないということです。
仕事一辺倒の人、あるいは自分より大切な誰かがいないのかな、と感じる人を、どうしても信用できない理由はそこにあります。
(外的要因からの文脈ではなく)「おひとり様」などと自分に「様」までつけて、自分中心に生きることを正当化して使っているのを耳にすると、ただの「自分様」だろうとさえ思います。
歴史的にも世界的にも、家族を大切にしない時代・民族は稀と思っています。
それは病んだ世界です。
現代の日本、もっと言えば高度成長期以降の日本は、その代表的な「家族崩壊」系の社会といって過言ではないと思います。私たちの親やその上の世代からです。
家族等より明らかに縁遠い会社の人間関係等を優先させ、他人にも強要してきました。
その価値観を引きずっている人がどれだけ多いか、長年社会にいればわかりますし、現代日本の深刻な社会課題の根源はここにあると感じています。
今、10代・20代の若い人たちがその価値観へのアンチテーゼともいえる方向で、システム化・仕組化されすぎた社会の殻を割ろうとする姿に苦言する大人が多いですが、私はむしろエールを送りたい。それは長い目で見ると正常な行動と思えて、嬉しくなるのです。
社会的ステータスがフリーターといわれようが何だろうが、家族(有縁の人)を大事にするという基本姿勢を持つ人の方が人間の自然な姿であると思っています。
かなり突っ込んで書いたので、不愉快な思いをして読まれた方もいらっしゃることと思います。
すみません。でも、これは自分への戒めでもあるんです。
冒頭の「早く帰る」の例外として、一刻を争う災害対応は、家族の理解を得て、時間の縛りから一旦解放する位置づけをしてきました。
しかし毎年災害は絶えず、一年のうち、結構な時間を災害対応に費やすのが現実。
そして最近は結局それに引きずられるように、それ以外でも早い帰宅ができなくなりつつある。
そう考えると、心がけると言ったことが実行されていないことへの自己嫌悪と同時に、出来ていないからこそ、このことは意識し続けたい、と思うのです。
・・・って、一日休暇取るのにどれだけ理屈をこねてるんだって感じになっていますかね(__;)