2016年2月11日木曜日

「自由と孤独は隣り合わせ」



連日分刻みで慌ただしく仕事した後、今週は毎夜お店ミーティング。夜も大事なので。
間に入ったお休みの今日も、3月末の4自治会合同防災訓練準備としての避難所HUGで半日埋りました。
明日明後日と災害連携全国フォーラム。土曜日も終日ですが、振替の休日なるものは二年前から存在せず。
でも、連日の飲みは身体への負担が身に沁みます。今日は休肝日にせねば。
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独身より既婚、既婚より子持ち。
束縛は増え、その自由度は減っていきます。
家庭を持つと、独身者は想像し得ない地域活動やPTA、世帯主としての親戚付合いなど、周りに対処すべき事項が増大していきます。
真面目に家庭人をやるほど、仕事とそれらでほとんどの時間が奪われ、現に昔からライフワークとしてきている数々の趣味に費やせる時間は、独身時代の10分の1以下になりました。
そして、年齢とともに本業での縛りも増え続ける一方。
ほとんど自由がなくなるわけです。
その代わり、そこに孤独はありません。
独りの時間は喉から手がでるほど欲しいけれど、周りが自分を必要としている環境に感謝こそすれ、孤独感・無用感はありません。
「自由と孤独は隣り合わせ」ということなのでしょうね。
最近、束縛の中でやることをやってきた人と、そうでない人との間に、視野の広さや経験に基づく判断に雲泥の差ができているのを感じます(30代以上の話)。
損得を超越し、自由意志では決して選択し得ない、時には理不尽だったり、能力以上のことを求められたりすることに立ち向かわざるを得ない日常。
それを乗り越えることでしか培われない面倒な諸々に向き合ってきたかどうかが、この歴然とした差ではないかと思います。
一専門性に長けているとか物知りだとか事務能力が高いとかは正直どうでもよくて、人としての総合力、つまり予期せぬ問題への解決・対応力や広い視野に基づく判断力などで結局評価されるのが大人の世界です。
この年になって様々な場面で痛切に感じます。
物事によっては、一定の年齢を過ぎてからはもはや経験不能、中に入ったり信頼を得ることができなくなります。
何事にも遅過ぎることはないというのは嘘だと思います。
人によって時期の前後は多少あれど、大事なことを「やるべき時期」は必ずあると思っています。
自分はまだ若いなんて思うのは幻想。気づいたら壮年から中年になっていましたから、熟年・老年もあっと言う間にきます。間違いありません。
高齢者の姿は、すぐ先の自分の姿だと思った方がいい。
機を逃さないようにするには「如何に自然体で生きるか」。
そこにかかっている気がします。
関係性を自分中心でしか構築して来なかった人が増大した結果、至る所での社会的孤立であったり、社会に対してクレーマー的な立ち位置しか持てない(他人に共感する力が極端に低い)大人だらけの現状に帰結したのではないかと。
結婚して家族を養う選択をしていなかったら、自分も今頃どれだけ歪んだ40代になっていたか…。
想像できるだけに恐ろしくもあります。
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って、今の置かれる状況を正当化して自らに言い聞かせているだけに思えてきました。
ただただ「とはいえ、頼むから自分の時間が欲しいよ~!」というのが本音かも・・・(°°;)。