2016年12月30日金曜日

人を裁くという行為

様々な異なる場面での出会った方々とFacebookでつながることができたことで、政治信条としては所謂左右両方の方の発信を目にすることになった。
SNSでは、多くはリンクのシェアなど元の発信人は知らない人ものだが、誰かを糾弾する話題において、すごい数の人がコメントをしている投稿に出交すことがある。
そこでは感情に任せて残念な表現をひたすら上塗りし、その罵詈雑言からは破壊や断絶以外生み出さないことが明確にも関わらず、同じ立場の人間でその中の少数派を完膚なきまで叩きのめすことに快感を求めて集まっているのを目にすると、不愉快を通り越しておぞましさを感じる。
一昔前の匿名が2ちゃんねるで書き散らしているものと違って、実名で仲間意識をもって吐き捨てていることがまた暗澹たる気持ちにさせられる。
今日、純粋に利他の心をもって支援に奔走している仲間が、言われもないレッテルを貼られ、書き込みで次々と知りもしないで罵詈雑言をたたきつけられるのを目にして、やり場のない怒りがこみ上げた。
***
人を裁く、という行為。
小さくは遠くから批判、次に直接批判、そして糾弾や制裁。
これは正義感が強いほど、自分は正しいのだと信じて疑わなければこそ、陥りやすい落とし穴である。
しかし、まず正義と思っていること自体、多くは主観であり、思い込みだと自覚すべき。
正義、道義に反する人を裁き糾弾したところで、そこには対立と争い、反発と怒りだけが残る。
***
怒りといらだちが不毛なのは分かっている。
上記に怒りがこみ上げたと同時に、自分も、それで近くの人を散々傷つけてきたことを思い返す。
特に自覚のないところで。ひどく。
ネガティヴな感情を表現するたびに痛切に自己嫌悪に陥ることを繰り返してきた。
わかっていたけれど制御できなかった自分が、ほとほと嫌だ。
吐けばすっきりするなんて嘘。
他人に批判的、他人とは一緒にされたくないという思い上がりの心。
自分が“正しく”生きることを目指すと、周囲の反面教師が目に付くようになる。
結果、他人批判、つまり「我見」を強め、余計に“正しくない”生き方に陥るというジレンマ。
この一年、自分はまさにこの落とし穴にはまって、思い上がり、いくつもの信頼を失ってきた。
自分を100%と規定するから人を恨んだり自分を卑下するわけで、25%程度の存在と思うことが大事、とある僧の言葉。
その通りと痛切に思う。
しかしながら、今日の出来事のように、明らかに正義とかの以前に、極悪と言える事象と遭遇することもある。 そのような場面に遭遇したらどうすべきか。
「反面教師にする」ことしかない。
極めてシンプルだが、自分はそういうことはしないと誓うこと。「他人の振り見て我が振り直せ」。
この話には必ず度合いを持ち出す人がいて、「じゃあ、お前の家族が殺められたり人災に見舞われてもそう言えるのか」となるが、反面教師にする、ということに例外はないと思う。
そして、その場合むしろ、裁くことは他人に任せるべきではないか。
その裁きが被害者である自分や仲間を幸せにすることはまず以てないから。
今日を振り返っても、ヘイトクライムな人種を殲滅させてやりたいと”裁く”自分がいた。
自分が心得るべきは、小さなことも含めて「他人を裁かない生き方」と思い返す。
何とも後味の悪い年の瀬、あと数時間で迎える新年まで、まずはこころを静かに迎える準備をしたいと思う。

2016年12月24日土曜日

地図帳研究

昭文社、平凡社、帝国書院、成美堂出版、二宮書店というような地図専門の会社の地図帳を色々買ってきて、一長一短があるが、結論としては以下のとおりなので、備忘として。

◇日本地図:昭文社。

都道府県ごとで特に市町村の境界線と自治体の区分が見えやすいという点において、日本地図は昭文社が一番。

◇世界地図:平凡社。
世界地図だけでの本を複数出しているだけに、見やすい。

帝国書院は小学生から見慣れた様式だが、妙に字体が古めかしいのが特徴。
成美堂出版は見にくい。

2016年12月20日火曜日

「上から目線」

「上から目線」。

本日の全国域の会議で出たワード。

私たち全国組織や官僚の方々が気をつけたいのは、「上から目線」と受け止められる言動。

「社協」でいうと、現場の市区町村は対住民にはっきりとしたミッションがあって、広域でないと担えないことがあるから都道府県があって、国(政策・制度)とのラインや統一した大きな方針や指針を必要とするから我々全国がある。

それぞれがそれぞれの立ち位置で「役割分担」をしているに過ぎない。
なのに「自分は上」、また逆も然りで「自分たちは下」と考えてしまう人がいる。

これと同じ構図はあらゆるところにあって、あちこちで耳にする。

普段から陰で末端を見下す発言をしていれば、外面は慇懃無礼に振る舞ってもすぐ見抜かれるが、そうでなくても落とし穴は無数にある。 

たとえ、当の本人にはそんなつもりがなくても、言葉尻、態度一つで「上から目線」という評価が飛んでくる。

「断定的な言い方だな」「随分な自信家だな」「難しい言い回し使いやがって」…。
はたまた「にこりともせず表情に乏しい人だな」程度の印象も、「上からの態度だよな!」となり兼ねないことを痛感すること数多い。

でも、残念ながら自覚が足りない人間も周りに少なくないから、
「全国の人間? 話もしたくない」と、全国域の人種に悪しきイメージが出来あがっていて、初対面から反発的に接せられる経験も一度ではない。

誤解を生まないためにも、自分がやっているあらゆることを、何のため誰のためと捉える作業を常に怠らないこと、支え支えられる関係性に想像力を働かせることが、大切な気がする。

協働・協力・連携という関係において、自組織本位であったり、いち業界の狭い常識を振り回すような思考は戒めねばと、自戒をこめて思う。

2016年12月1日木曜日

優しい人になるための「ほうれんそう」

優しい人になるための「ほうれんそう」があると新聞投稿された方がいらっしゃいます。
ビジネスの報告・連絡・相談ではなく。
「奉仕」「恋愛」「想像力」。
「奉仕」は見返りを期待しない行為(仏道におけるの布施のような)と捉えたら、納得。
「恋愛」…これも見返りを求めない恋愛でないと。難しいでしょうね(笑)。でも過程で優しさは不可欠。むしろ失恋の方が優しさを学ぶかも(^^ )。
「想像力」。極めて大事。これが欠けた優しい人は存在しないでしょう。
3つに共通して言いたいだろうことは、自分を持て余していっぱいいっぱいではダメということ。
他人に関心を寄せられる心の余裕を持てることなんだと思います。
“自分様”の対極ですね~。