2016年1月27日水曜日

「伝統」の言葉を考え直す

『それホンモノ? 「良き伝統」の正体』という記事タイトルに共感。
私は「伝統」という言葉が好きになれません。
自身の主張や嗜好を押し通すべく、「伝統」という言葉を武器に、相手に有無を言わせないために使われる言葉であることが多いからです。
祭りなどでも、すぐに「伝統」を持ち出しますが、検証すればたかだか100年とか、ひどい場合は戦後に始まったことを伝統とか言って、後進を屈伏させようとする人がいます。
昔の日本人は…などと口にする類いは、たいてい疑って間違いないと思います。
せいぜい自分か両親世代の情報で決めつけているから。
その時代がとても誉められたらものではなかったり、時代とともに変えるべきことの方がよほど大多数だと思うのです。
温故知新は大切ですし、革新のヒントは必ず過去にあると思っていますが、温故の部分はしっかり自分の手で集めた情報で検証してから、今の在り方を考えるべきと思います。
まがい物の伝統は、冠婚葬祭など儀式的なものにも巣くっているから要注意です。
男性的であることを日本でははるか昔から強いられてきた、とする話をよく耳にしますが、私の経験として、戦前の成瀬巳喜男監督の日本映画に登場する男性主人公の女性的仕草や優しさ、言葉遣いの柔らかさに衝撃を受けたことがあります。男性性の象徴、黒澤明作品でさえ、戦前の男性主人公のキャラクターに驚かされました。
また、そういう時代の小説などでも、決して男性的男性が一般的価値として共有されていたとは思えない描写に出会います。
私たちの信じ込まされてきた昔からの日本男児像は、戦時中に作られて、それをずっと引きずっているだけで、決して伝統でも、伝統ある日本文化でもないのだと気づかされた経験でした。
また、地域差や少しの時代の違いでもきっと価値観の変容は様々だと思うのです。
◆それホンモノ? 「良き伝統」の正体(毎日新聞)
http://mainichi.jp/articles/20160125/dde/012/040/002000c
ポイ捨てしない、列は守る、綺麗好きで礼儀正しい日本人…。
そう言って憚らない人は少なくないと思いますが、日本人という大きな括りで語っても、意味をなさないという証拠だと思います。

2016年1月19日火曜日

「謙虚」に生きるために

一つの分野に継続して関わる縁を得て、自分もそれなりに求められる場面が増えてきた今日、自戒を込めて思ったこと。
一朝一夕では得られない「知識」や「経験」、これがある程度蓄積されると人間の厚み(注:深さではない)が出てきます。
それを次には「智恵」として目の前の日常に落とし込んで実践することができれば「一人前」。
でも、その先から2つに大きく方向が分かれるように感じます。
一つは『自分』(及び自分の思想・信念)を前面に売り込んでいく行き方、もうひとつは『謙虚』な行き方。
「知識」「経験」を「智恵」に昇華して表現できるようになると、多くの場合世間で認知され、求められるようになります。
人間の強烈な欲求である承認欲求、求められることを体験すると、これは確固たる自己肯定感につながります。
世間にとって「役立つ」限り無視はされませんし、立ち位置が確立して、何より「忙しく」なって時間も充実したかのようになります。
我が考え方・思想に自信がつきます。上昇気流に乗った気になります。
そこから人の真価は問われるのかな、というのが私見です。
自信は、天狗になるという落とし穴に一直線でつながっていきます。
大抵、表面上は自己卑下したり謙遜したりしますが、もてはやす輩に囲まれて、実は内心の天狗度は上がる一方…。
節々に表出する「上から目線」と「選民意識」…。
真に『謙虚』な人は、
①人の話しに耳を傾けられる
 対人術として聞くフリが上手でも、本当に受け止めていたかどうかは後の言動でわかってしまいます。
②他人に配慮・心遣いができる
 ゙親しくない人゛を含めた他人であることが重要です。
という点において、決定的な違いがあるように思います。
自分との関係性の濃さや相手の社会的ステイタスに左右されず、相手が誰であれ根本的な向き合い方がぶれない人とでも言いましょうか。
私は『謙虚』のベクトルで年を重ねている人に敬慕の念を持ちます。人間の「深さ」を感じます。純粋に素晴らしいなあと。そして、そうなりたいと。
今回の出張でそんな局長さんにお会いできたことは嬉しいことでした。
一方、処世術に優れ、いくら有能で行動力や発言力で社会的に重宝されている人でも、結局は「自分様」、自己陶酔系の方は、まあ、遠くからご活躍を拝見しますっていう感じです。お近づきは遠慮したいと殊更思うようになっています。
これらのことを心に留め置いて、我が振る舞いを自覚し、人様に耳を傾けて、忠告やダメだしをされたら素直に受け止め、慢心に陥らないことを意識する。
そう心掛けたいと思いました。

2016年1月9日土曜日

「プラスのオーラを出せる人になりたい」

新年は、あらためて、自分はこれからどうしたいかを整理する良い機会です。
「プラスのオーラを出せる人になりたい」。
齢を重ねるにつれ、中身が外に出るというのは真実と思います。
どうしたらプラスのオーラが出るのか、また逆にマイナスのオーラはどこからくるのか。
プラスのオーラのポイントは
『喜び上手であること』
『感動できること』
かな、といま考えています。
同じ現象を喜ぶ人と喜べない(何も感じない)人がいます。
喜び上手・感動できる人に「幸せ」が集中していくような気がします。
喜び上手は幸福を感じる幅が広がっていくので、益々幸福が増える。
喜び上手の人は肯定的な言葉を発して笑顔なので、それがプラスのオーラとなって人に伝播して周辺に幸せ感を充満させます。
また、感動は人生最大の喜びと考えます。
時折、この感動のために生を受けたのかな、と感じることも。
感動は感謝に繋がり、豊かな人生となります。
感動は何も特別なイベントに付随するものではありません。
そのためには、日常生活の中で、感動できる感性を磨くことでしょうか…。
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プラスのオーラを持つ方から幸せをいただけた今日。
時がわだかまりを氷解し、心から楽しいと思えるひとときを共有できた今日。
そして、共感し合えることに深く感謝した今日。
感動できたことを少し客観視して、この「有り難い」経験とこの気持ちを大事にしたい。
感動と感謝は密接な関係にある。
人に感謝すべきであるという考え方は誤りで、感動するから感謝が自然に生まれるのだと。
初詣は祈りの時だが、「請求書の祈り」でなく、「領収書の祈り」でありたい。
「叶えて下さい」ではなく、「今を有り難うございます」ということ。
かたや、文句や問題提起(私のFBに多いか…)、糾弾、自己嫌悪・自己卑下、こういう言葉を発し続ければ、間違いなくマイナスのオーラが撒き散らされる。
真面目すぎること、これもマイナスのオーラだと気づいた。
真面目に振る舞うことを優先させ、短絡的に正義感を振りかざしてきた若い自分は、周りにマイナスオーラを出し続けてきたのだろうと振り返る。
周りから浮いた感に悩み、人間関係に苦しんだ。何故自分はダメなのかと自己嫌悪して負のスパイラルに入り、それらのマイナスのオーラがそうさせていたと説明がつく。
しかし、子育てと並行して仏教が示す人生のあり方と出会えて、かなり軌道修正されたかもしれない。
だが、まだ精進不足でマイナス要素の多い人間だと思う。
だからもう一度忘れぬよう決意を言い聞かせる。
「プラスのオーラを出せる人になる」。

2016年1月7日木曜日

自分様にならない蘊蓄術



私は物知りの人の話を聞くのはどちらかといえば好きなほう。
蘊蓄家がいる。
何故か、とても好感の持てる人と、二度と聞きたくない人と、真っ二つに別れる。
自分はその後者になるのが怖くて、語ることを避けてきた。
恐らくFacebookに書いているような話(映画、音楽、旅、育児、仏教etc.)を飲み会等で私から長々と聞いたことがある人はほとんどいないと思う。
同じ話題でも、もっと聞いてみたいと思う人がいる一方で、不愉快極まりない印象の人がいる。
どうも、話す内容や知識量、また必ずしも“話し方"に良し悪しがあるのではないようである。
話し手の年齢が年上か年下かも関係ない。
違いは何なのだろう、とずっと不思議に思っていた。
問題の所在は、話し手の「我(が)」の位置が全てであることに、今、突然気づいた。
要は「自分様」になっていないかどうかなのだ。
優越感のために、我が快感だけのために、悦に入って話している場合、聞かされる方は最悪である。
かたや、話題の対象を心から愛していて、その感動を伝えたい、という場合は、素敵である。惹き込まれる。無我の境地で語る姿である。
伝え方は、熱くても、しっとりでも、ユーモラスでも、訥々としていても、それぞれの個性があっていい。
そのプラスのオーラがこちらにも伝播して、聞く方も幸せになってくる。
いやあ、長年の謎が解けて嬉しい(^^ )

2016年1月4日月曜日

「変えること」をいやがるのは大人

昨日は汗びっしょりになって半袖で公園で遊べたお正月。
今日は気温17度の天気予報。
しかし、朝の通勤は皆様真冬真っ最中の厚着で、コート無しの私は完全に浮いている。
実際、4月のような陽気が続いていて、これだけ天気予報の精度が上がった時代でも、人々は暦上の季節感(いわゆる「慣習」)を重視し、臨機応変に「変える」ことを拒んでいるように見える。
疑問を持つことをよしとせず、有無を言わせぬ慣習が嫌。
臨機応変より惰性や前例踏襲を選択することが嫌。
正月早々、そんなことを気にしてばかりだと疎まれるわな。