2016年1月7日木曜日

自分様にならない蘊蓄術



私は物知りの人の話を聞くのはどちらかといえば好きなほう。
蘊蓄家がいる。
何故か、とても好感の持てる人と、二度と聞きたくない人と、真っ二つに別れる。
自分はその後者になるのが怖くて、語ることを避けてきた。
恐らくFacebookに書いているような話(映画、音楽、旅、育児、仏教etc.)を飲み会等で私から長々と聞いたことがある人はほとんどいないと思う。
同じ話題でも、もっと聞いてみたいと思う人がいる一方で、不愉快極まりない印象の人がいる。
どうも、話す内容や知識量、また必ずしも“話し方"に良し悪しがあるのではないようである。
話し手の年齢が年上か年下かも関係ない。
違いは何なのだろう、とずっと不思議に思っていた。
問題の所在は、話し手の「我(が)」の位置が全てであることに、今、突然気づいた。
要は「自分様」になっていないかどうかなのだ。
優越感のために、我が快感だけのために、悦に入って話している場合、聞かされる方は最悪である。
かたや、話題の対象を心から愛していて、その感動を伝えたい、という場合は、素敵である。惹き込まれる。無我の境地で語る姿である。
伝え方は、熱くても、しっとりでも、ユーモラスでも、訥々としていても、それぞれの個性があっていい。
そのプラスのオーラがこちらにも伝播して、聞く方も幸せになってくる。
いやあ、長年の謎が解けて嬉しい(^^ )