2015年5月16日土曜日

古鏡としての経典

経文を学び始めて思えば10年という時間が経過し、日常生活から経文が離れ、繰り返すことを怠ってきたために、40近く暗誦できた経文が、もはや10程度(しかも短いもの中心)になってしまい、この40代は明らかに試練を呼び込んで、仏教に照らし合わせて解決することもできない状態が続いてきました。ひとえに、仏法離れがなせる業と納得しています。

経典・経文を「護呪」として、いわば祈りのためと捉えることが多く、陀羅尼などはそう捉えるしかない部分はあるが、いくつかの経文については自分は「古鏡(こきょう)」として捉えることを意識したい。

経文の中にある内容と自分の生き方を照らし合わせて、正しく生きるための指針として読むあり方です。修証義などがこのあり方に相応しい経文の一つです。
暗誦が目的ではありませんので、一言一句を味わい、思惟し、日常の落とすことを心がけたい。