2015年6月3日水曜日

人を裁かない・糾弾しない生き方

人を裁く、という行為。小さくは遠くから批判、次に直接批判、そして糾弾、制裁。
これは正義感が強いほど、どうあるべきかを真剣に考えていればこそ、陥りやすい落とし穴です。

正義、道義に反する人を裁き糾弾したところで変わることはほとんどなく、そこには対立と争い、怒りだけが残ります。

正義の怒り、これは若いときから自分も強く持ってきた経験があり、いまだに多少は大人になったとはいえ、その考え方は残っています。
まず、正義と思っていること自体、多くは主観であり、思い込みが多いことを自覚するべきですが、明らかに正義以前に、極悪と言える事象と遭遇することもあるわけです。

では、そのような場面に遭遇したらどうすべきか。

「反面教師にする」。

ということだけが結論かもしれません。
つまり、そういうことはしないと心に誓う、ということです。
「他人の振り見て我が振り直せ」とは古くからいわれていますね。

この話には、必ず度合いのことを持ち出す人がいて、「お前の家族が殺められてもそう言えるのか」となりますが、反面教師にする、ということに例外はないと思います。
そして、裁くこと、糾弾することは、その場合むしろ他人に任せるべきではないかと思うのです。
その裁きが被害者である自分を幸せにすることは先ず以てないからです。

スマナサーラ師の怒りのテーマや小林正観さんの本、寛容・不寛容を考えたりする中から、改めて整理しました。

今日を振り返っても、他人に怒りを感じて心穏やかならぬ時間をいかに持っていたか。偉そうに書いて、実に恥ずかしい限りです。

私が心得るべきは、いかなる場合でも「他人を裁かない生き方」です。