私は昔からお寺と教会がとても好きな空間でした。お寺は小学校六年生で友人だけで冒険を兼ねた京都旅行をしたとき以来、教会は大学三年の欧州45日間旅行以来。
それらの歴史的価値や芸術的造形美の価値の前知識がそうさせているのだろうと、漠然と思っていたのですが、時を経るに連れて、どうもそうではない感じがしてきました。
やはり、歴史的な長い年月を経ている日本の寺と欧州の教会にだけ、とても強く心震える感覚、包まれるような安堵感を感じるのです。
もともと造形的には、日本の古い街並みだってヨーロッパの城だってとても好きなのですが、寺と教会に感じる心の深くまで包まれる感覚、これはどうやらこの空間に何か他にないものがあるのだと。
静寂がそうさせているのだけなのか、宗教の空間だからしおらしくしていることの影響だろうかとも思ったが、どうもそれだけでもない。
そして、また小林正観さんの説ですが、沢山賞賛を受けて、凄い、素晴らしいと言われてきた対象や空間には、すごいエネルギーが宿る、ということです。
これだ!と思いました。
これまでそこで澄んだ心の人が出入りし、 敬虔な気持ちが積み重ねられた寺や教会に、そういうエネルギーというか、プラスの「気」が蓄積されていると考えれば、合点がいきます。
一朝一夕ではなし得ない重厚な気の空間。
プラスもマイナスも含めた人間の様々な生活空間としての街並みや遺跡と違って、いつの世も、敬虔な気持ちで人々が足を運び、感動や安寧を提供してきた空間である寺や教会が、説明出来ない特殊な雰囲気を保持していることは、これで実に納得できるのです。
最後に、蛇足として。
小林正観さんは、この応用の話として、人間の成長過程での賞賛の大切さを説きます。
場合によっては、自分で自分に賞賛(感謝なども含めたプラスの言葉)を投げかけ続けることで、自分自身がプラスのオーラを出せる人間になると言います。
まだ、これはどうしても実践に移せません。きっと、心の根底に自己嫌悪を持っているからだと思います。
この自己否定感を打破するにはどうすれば良いのか。
色々ここまで書いてきている文章は、捉え直しを狙っているつもりですが、真の自己肯定に至るのは極めて難しいとしか、現時点では言えません…。