2015年4月13日月曜日

「気づかせる」ための試練

ここまで公私ともに追い込まれるような試練が続くと、本気で打開策を考えないと乗り越えられなくなります。

次々と起こる難題と、自分の対応の結果が裏目に出て、自信はなくなる一方。首を傾げるばかりで、今日まで悶々と頭の中を不毛なことがぐるぐると渦巻いていました。

それが今朝、通勤の途中で、改めてこれは

「仏法への参究」

が自分に求められていることを意味するのだ、ということが腑に落ちました。
それに尽きると思いました。

次々と降りかかる試練は、このことに気づくためのものであったのだと。試練がないと、残念ながら、自分には気づくだけの力がなかったわけです。

両親、妻、同僚、そして子どもたちが、自分に投げかけ続けてきた言動は、それを伝えることが自分への意味あいだったのです(勿論、当の本人たちに意図があるわけではなく)。
私は、そのことに気づいて、一から言動を仏法に照らし合わせて見直す必要がありました。

そして、一言で今の自分に必要なことを表現すれば、

「(対自分を含めた)寛容と優しさ(慈悲心)」

ではないかと。
大きな気づきです。