あいさつができるできないということが何かと言われます。
今朝も近所で朝あいさつをして反応がなありませんでした。
すると、次、その人にあいさつすることをためらってしまいます。
でも、それは違うのでしょう。こちらの声が小さかった。向こうは何か(考え事を含めて)夢中になっていて、自分に向けられたあいさつと思わなかった(実際、目は合っていません)。
という具合です。
相手の反応あってのあいさつである限り、目下からあいさつがあって当然、というようになり、結局あいさつは消滅していきます。
我が社は、あいさつができる(する)人ほど出世ができず、難しい仕事をこなせない印象があります。主力メンバーは、世間の常識と逆で、揃ってあいさつできません。しかし、だからこそ我が社の居心地が悪いのは理由がわかります。
ちょうど一年前、管理職となって、自らあいさつして雰囲気を作っていくことを心がけるも、数ヶ月で挫折して、また次の4月1日を迎えてしまいました。
もう一度、戻らなければいけません。
まず、ここにおいて仕事のできる奴に本当になれるのか? なりたいのか?
否。外で、より広い世界で、まともでありたい。もっといえば、世間の常識が何であれ、人として全うに生きるべく振る舞いたい。その決断は一度、仏法と出会った時に感謝とともに実感したはず。
ここ数年、自分の思考、行動ともに、仏法からあまりに離れてしまっていました。
2015年度の初日、改めて日々の生活を仏法と照らし合わせて、正しく生きる、振る舞うことを心がける決意をします。