仏法でいう「我」とは好き嫌いのこと、と表現された高僧がおられました。
他人に批判的、自分は他人と一緒にされたくないという思い上がりの心。
自分が正しく生きることを目指すと、周囲の反面教師が目に付くようになるのは自然の流れですが、それが結果、他人の好き嫌い、他人批判という見方、つまり我を強くしてしまい、余計に仏法に沿った生き方から離れていくという難しさ。
この一年、自分はまさにこの落とし穴にはまっていくつもの信頼を失ってきたように思います。
あるべき姿をしっかり胸にもちながら、それを振り回さないということでしょうか。
しかし、そんなことを意識すればするほど、何も本音で話すことができなくなって、口数もどんどん減っていきます。笑顔もなくなっていくという悪循環。
そんなことより、身近な幸せに目を向けようという志もあるのですが、この情報過多で目まぐるしくストレスフルな日常にすぐに押しつぶされてしまいます。
自分の度量をオーバーした環境にいる限り、このスパイラルから脱することは困難なのではないか、と白旗をあげる一歩手前。
ある僧曰わく、自分を100%と規定するから人を恨んだり自分を卑下するわけで、25%程度の存在と思うことが大事、と言います。他人からの視線に一喜一憂している自分を思うと、本当にその通りと痛切に思うのですが…。
がんじがらめの日常を一度捨てて、自然に戻って沈思黙考する時間と空間をまとめて作らないといけないかもしれないと
、そろそろ本気で思い始めています。