2017年2月14日火曜日

背中を見せる生き方をする他ない

勢い余って表現の度が過ぎて、自覚無く傷つけてしまい愕然とすることを、経験しました。
その時は、何とか誠意を尽くして理由を説明したい、好ましくない表現をした自分の行為を謝って和解したい、とその問題解決方法を模索してもどうにもならなかった。

かわって、災害支援の現場にて。
凄いスピードで一種興奮状態でのやりとりが続く中、ある人はこう言っていた、批判していた、というような伝達が本人不在の中で飛び交う。
伝えるインパクトを強めるために修飾語がついて話は膨らんだ挙げ句、別ルートから自分の言動として尾ひれがついたそれを聞かされ、「そんなこと言ったこともないし、ニュアンスがむしろ反対になっている…」とショックを受けたことも一度ならず。
急に自分への態度が余所余所しくなっておかしいなと感じて、探って初めてわかったりする場合のやるせなさ。
無数の人々と短期間で覚えきれない量の会話を交わして疾走し続けると、必ずといっていいほど発生する行き違い、誤解です。

また、不正なこと、卑劣なものを目の前にして、黙っていられない。そこでの振る舞いが過ぎたことで悪者がこちら側になってしまう。

自分が話題の渦中に置かれてしまえば、誤解を正すことはほぼ不可能です。

じゃあ、大人しく他人に陰口叩かれないよう自己保身に生きる道を選ぶのか?
それは自分が許さない。

これまでも、話し方や伝え方を悩んできましたが、解決策はそうありません。
今も、我が至らぬ振る舞いが本位でない受け止めをされて「誤解」や「歪曲」に苦しむことに陥る。
そういうことが起こるのが、悲しい哉現実。

そんな中で、ある文章に救われました。
これは、目から鱗の回答でした。
そう割り切った答えがあるとは思いもよりませんでした。
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『たとえだれかを傷つけてしまったとしても、自分のせいだとか、あまり考える必要はないと思います。それを思い悩む必要はありませんし、自分がつらく悲しい気持ちになる必要もありません。誤解されていることに関して、一生懸命相手に事情を説明して、わかってもらいたいと思うのはやめましょう』
『ただひたすら後ろ姿を見せて、「あー私は、あの人を誤解していたかもしれない」とその人に思わせるような生き方を、これからしていけばいいと思います』
『死ぬ前に誤解が解けなくても、それでよし。誰かに誤解されても、それをどうしても「解きたい、解きたい」と思う必要はありません。誤解されたとしてもいつかはわかってくれる、と思いながら生きていけばいいのではないでしょうか。』
〔小林正観著『すべてを味方 すべてが味方』(三笠書房)〕
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今の私は、この言葉を拠り所にしています。