2017年2月22日水曜日

西村幸吉の生涯が伝えること

戦争や平和の具体を突きつけられると、人生とは何なのか、生まれた時代が悪かったで終わりなのか、人間自らの「業」の結果は、天災さえも霞む程の悲劇をもたらすことを繰り返す他ないのか、考えさせられ苦しくなる。

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オーストラリアの副読本に採用されている、日本人の話があるという。
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昭和17年、ニューギニアの戦場で小隊40名中、その人西村幸吉一人を除いて戦死した。
九死に一生を得てラバウルに脱出した時、入隊時73キロの体重は28キロになっていた。
終戦の昭和20年の25歳、ニューギニアの仲間の骨をいつか拾いに行きたいという条件を伴侶に伝えて結婚した。
三男一女を授かり、機械製作所を立ち上げ順調に経営してきたが、59歳で仲間の遺骨収容のためにニューギニアに移住することを決意するも、家族と決裂、工場を含めた財産を妻に渡して離婚。
以来、西村は死ぬまで家族と会うことはなかった。
妻のことを尋ねられても「名前さえ思い出せない」。
それから85歳までの26年間、5億円の私財を投入して、ひたすら遺骨収容だけに全てを奉げ、300体の遺骨を収容した。
その西村の言葉。
「家族を失うことは大変なことだと言うかも知れませんが、ニューギニアで死んだ兵士たちが払った犠牲に比べれば大したことはありません。彼らに比べれば、こっちは極楽で暮らしているようなものです。あの兵士たちは地獄へ放り込まれて死んだんです。自分は運が良かった。本当に恵まれていました。戦争が終わってから、まともなものを食べ、行きたいところに行けるようになり、自由になった。自分の状況を彼らと比べたら、骨を掘って26年を暮らしたことなんて何でもない。ほんの些細なことですよ。死んだ彼らを思えば、これくらいして当然です」
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一時の感傷や多少の罪悪感などで出来る所業ではない。
他人からの評価や承認欲求が最大の関心事の世界とは、真逆と言ってもいい。
国内での三十余年、どんな思いでいたかは、想像を絶するものがある。

オーストラリア人のこの著書はベストセラーとなり、教材として、彼の地の高校生の多くは西村幸吉を知っているという。
私たち日本人は、知らない。

なぜ、この話が教材になるのか。

私たち現代日本人は、この話を家族を犠牲にした“誤った人生”という評価しかできないのではないか。

目の前の損得勘定で、岐路の判断をすることに疑念を持たないことが普通になってしまっている。
「生」を実感として考えて、一番大切なことは何かを間違わないことを、私たちは常に確認していかないと、大衆の総意という名の下に取り返しのつかない判断ミスを犯す危機を感じる今日日。

「一億総○○」など、危険この上ない思考停止の標語だと思う。
“福祉”は、とかく総論賛成の魔法の言葉として使われがちなのも怖いと思うことがある。「制度だから」「国が謳っているから」で本当に良いのか。
職場で空気の如く飛び交う言葉に、思う。